あるきろく20200126
2020年1月26日 あるきろく 甲州道中をあるく(8日目)
2020年のあるきろく、3日目です。
甲州道中をあるいてきましたが、ついに残り4里弱。
早速ですが、スタートです。
雪が降る、とのことでしたが、しとしとと冷たい雨。
新宿や日本橋の街が目覚める前にゴールすべく、早い時間のスタートです。
ここに至るまでに、甲州道中の北側には寺院と大きな墓地が続きました。
和田堀廟所には樋口一葉の墓があるそうです。
暗い写真で恐縮です。
玉川上水にかかる橋、代田橋の跡です。
四代将軍家綱の命により、玉川兄弟が多摩川の羽村から四谷大木戸まで引いた上水です。
塚の上に生い茂っていた笹(または竹)により、笹塚と呼ばれるようになったようです。
日本橋まであと3里。
幡ヶ谷駅を過ぎ、初台駅に向かっています。
平安時代の永保3年~寛治元年(1083~1087)に東北地方で戦われた後三年の役を終えて上洛の途にあった八幡太郎義家がこの辺りを通り、池で白旗を洗い、そばにあった松の木にかけて乾かした、という伝説があります。これは、源氏伝説の一つであり、実際のできごとであるかは不明ですが、この池が「旗洗池」と呼ばれるようになり、いつしか、「幡ヶ谷」という地名に転じたそうです。
国道20号線は日本橋まであと10kmとなりました。この先はほぼほぼ国道20号線をトレースしますので、甲州道中もあと10kmということになります。
左手には新国立劇場、地下には京王線初台駅があります。
代々木村と角筈村の境界に位置する天満宮です。樹齢300年を超える銀杏がありますが、箒を逆さにしているように見えることから「箒銀杏」と呼ばれています。
新宿駅を越える頃に夜が明けました。
あるきろく20190805で触れていますが、甲府市酒折で離れた青梅街道と5ヶ月半ぶりの再会です。
元和2年(1616年)に大木戸が設置されました。江戸市中においては西口、内藤新宿においては東口に当たります。
また、玉川上水はここまで開渠で流れ、水番所でもあったここからは江戸市中に向けて石樋や木樋などを地下に通し、通水しました。
外苑東通りとの交差点を過ぎた辺りから、この立て看板が目に付くようになりました。
じっくり目を通すと、今日新宿シティハーフマラソンがあり、交通規制がされるとのこと。この辺りは8:25から規制開始のようで、1時間早かったおかげで助かりました。
下に見える総武・中央線は外堀に位置します。
この外堀にかかる橋を渡ると、江戸城防御の城門となる四谷見附があります。
寛永13年(1636年)に長州萩藩主毛利秀就により城門石垣が作られ、寛永16年(1639年)に門が建築されました。高麗門と渡櫓門を互い違いに配置する桝形門でしたが、明治5年(1872年)に渡櫓門は撤廃され、多くの石垣も撤去されてしまいました。
「麹町」町名由来諸説
①町内に「小路」が多かった
②米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があった
③武蔵国府へ向かう「国府路」があった
いずれもそれっぽいですね。
横断歩道の真ん中からの撮影です。
おにぎり(国道看板)が半蔵門に浮いて見えます。
江戸城に危機が迫った際に、甲州道中を利用して、甲府経由で駿府に至るための門。
名前の由来は、服部半蔵の屋敷があったから、とか。
少し見づらいですが、階段を下りたところに井戸枠があります。
旱魃の際にも枯れることのない名水と言われ、多くの通行人が利用したそうです。
江戸時代当初は、熊本藩主加藤清正の屋敷でしたが、寛永9年(1632年)2代目当主忠広の時に没収されました。
その後、彦根藩藩主井伊家がこの土地を手に入れます。幕末の桜田門外の変の時にも、井伊直弼はこの屋敷から桜田門に向かっています。
歴史の教科書に必ず出てくる桜田門外の変。
先ほどの井伊家屋敷から、6分で着きましたが、信号待ちがなければ1~2分で着く距離です。そんなわずかな機会を、水戸浪士は狙っていた、ということになります。
日本橋まであと3kmです。
ここからは、国道1号線とともに進みます。
江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
新幹線とJR線のガードの左側が有楽町。
ガードを越えた先が銀座。
ペコちゃんブランドのビルが目立ちます。
大正時代のキャッチコピーに「今日は帝劇、明日は三越」というのがありました。
今日は帝劇の前を通り、三越の足元にある日本橋を目指しています。
これだけ見通しがよいと、気持ちが良いですね。
ここって、東京マラソンのゴール地点?
橋の向こう側に和田倉門があります。
二万石から三万石の譜代大名が警備を勤めたようです。
東京駅を丸の内側から八重洲側に越えました。
東京駅日本橋口から出てすぐのところに、呉服橋跡があります。
眺める方向(高島屋方面)を真っ直ぐ進むと、京橋、銀座、新橋に至ります。
この交差点を左折すると…。
ついにゴールが目の前に迫りました。
①日本橋の創架:慶長8年(1603年)
②日本橋が幕府直轄の主要五街道の起点として定められる:慶長9年(1604年)
③現在の日本橋の架橋:明治44年(1911年)
日曜日の朝ということもあり、交通量が少なかったため、橋の中央に埋設されている道路元標を撮影することができました。
良い子はマネをしてはいけません!
佐藤栄作元総理大臣の揮毫と、先の解説版に書いてありました。
スタート地点であった下諏訪宿以来、中山道とも再会を果たしたことになります。
1月26日のあるきろくはここまで。
時間は3時間30分強、歩数は22,500歩、距離は15.5kmでした。
下諏訪を出発してから日本橋までの時間トータルは42時間弱。
台風の影響による通行止めや、すでに現存しない道もあり、もちろん100%のトレースはできませんでしたが、ガイド本などを頼りにできる限り忠実にあるいてきました。
とにもかくにも53里24町を完歩しました。
次はどこをあるこうかな…?
あるきろく20200113
2020年1月13日 あるきろく 甲州道中をあるく(7日目)
2020年のあるきろくは、中8日でさっそく2回目です。
前回終着点の高尾駅での写真を撮り忘れたので、
今回はすこし戻って、最後に写真を撮った駒木野宿&小仏関所からのスタートにします。
夜明け前の駒木野宿&小仏関所跡です。
高尾駅から20分弱歩きましたが、まだ真っ暗で、到着したころにようやく明かりがさしてきました。
高尾駅まで戻ってきました。
町田街道との交差点からしばらく、国道20号線と並行する旧道を進みます。
重厚の面持ちの家が並んでいました。
矢印看板の表裏で、街道の歴史が分かります。
旧甲州道中は慶長九年(1604年)の開通。
現甲州街道は昭和3年、ということなので1928年の開通です。
写真にうまく収められませんでしたが、道を挟むように「武蔵陵墓地参道」標柱もありました。
写真ではうまく表現できないのですが、背後を振り返ると雄大な山並みが見えました。
ちなみに右側の建物は高尾警察署です。
八王子市役所横山出張所の敷地にある、大きな樹木です。
これまでに見てきた一里塚と比較しても、まったくもってそれらしい塚ではありますが、これは一里塚ではありません。現存しませんが、このすぐ東に散田の一里塚が存在したそうです。
「右 高尾山」「左 真覚寺」と刻まれています。
ここはクランクになっていて、らしさ満開の「枡形」跡です。
甲州街道と陣馬街道の追分です。大きなX形の交差点です。
標柱の文字ですが、「右 あんげ道」とありますが、「あんげ」とは???
八王子千人同心は半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐武田氏の家臣・小人頭と配下の小人(同心)にありますが、武田氏が滅びたのち、徳川家康が甲斐国を治めるようになると、甲州口の押さえとして江戸の西を守る役目を与えたようです。
この碑は、追分から陣馬街道に入ってすぐのところに立っています。
碑が立っている以外に宿場の面影はありませんが、マンションや商業ビルの合間に蔵が立っていたりします。
2019年5月26日にもこのアングルで撮影をしました。
桝形の一角にある一里塚です。
看板には日本橋から「12里」とありますが、前後の一里塚での表示などからも11里が正しいと思われます。
あるきろく20190519で浅川をあるきました。
この白く写る道を上流に向かって行きました。
石仏石塔群があります。
日野自動車の工場敷地のフェンスにかかる一里塚解説看板です。
読んでみると、実際の一里塚の位置は西に90mとありましたので、少しだけ八王子方面に戻ってみます。
日野台住宅入口交差点辺りが実際の一里塚の位置でしょうか。
日本橋まで10里。
日野台の一里塚から日野自動車の工場に沿って進み、工場敷地が途切れたところが日野大坂上。
名前の通り、そこから一気に坂を下り、ぶつかった中央本線の向こうにある地蔵だから「坂下地蔵」です。
甲州道中は中央本線に遮られてしまいましたので、日野駅近くまで迂回して線路の反対側にある坂下地蔵に辿り着きました。
日野宿は上宿、中宿、下宿と分かれていて、八王子側に位置するのが上宿だそうです。
年代ごとの甲州街道の変遷が記された案内板が、建物の壁面に張り付いていました。
今回は、旧道にあたる万願寺の一里塚、万願寺の渡船場を訪ねるつもりでいましたが、ガイド本にはその道のりが記されていなかったので、とても助かりました。
この先、しばらく緑色の先を追いかけることにします。
立派な建物が残る日野宿本陣跡です。
現存する建物は嘉永2年の大火によって消失の後、建設されたものですが、当主の佐藤彦五郎はこの大火をきっかけに自衛の必要を痛感し、天然理心流を学び、道場を開設します。
この道場に集ったのが近藤勇、沖田総司らであり、日野出身の土方歳三などを交え、ここから新選組の物語が始まります。
先の看板を頼りに旧甲州道中を進み、多摩都市モノレールの下で万願寺の一里塚に到達です。
日野宿本陣に始まり、日野市内のいたるところで新選組を模した印などが見受けられます。
日本橋まであと9里です。
万願寺渡船場跡から国立市方面を眺めています。
多摩川の渡しは甲州道中開設当時から順に、石田⇒万願寺⇒日野と移ったようです。
万願寺から日野に渡船場が移ったのは貞享元年(1684年)で、それ以後も作業渡しとして利用はされましたが、日野橋が架橋された大正15年(1926年)には廃止となりました。
貞享元年からの甲州道中における多摩川の渡し、日野渡船場です。すぐそばにかかる、モノレールも走る立日橋で多摩川を渡ります。
現在の甲州街道である国道20号線は、この日野橋で多摩川を越えます。立日橋とは数百メートルの距離です。昨年秋の台風に伴う増水により道路が陥没し、日野橋は通行止めになっています。分かりづらいかも知れませんが、よく見ると左から3本目の橋桁の辺り、道路がV字に歪んでいます。
多摩川の土手から新奥多摩街道に向かって下りると、石碑やオブジェ(?)が現れます。
新奥多摩街道を横断し、車通りのほとんどない道を進みます。地図を見ると、新しい幹線道路である新奥多摩街道を半円状に迂回するような感じであり、奥多摩街道と合流した後、日野橋交差点に至ります。
日野橋交差点から国道20号線に入り、数百メートル東に進んだのち、多摩川に向かって右折します。鬱蒼と茂る木々に向かって坂を下ると、そこには橋が架かっています。渡った先にこの石標が立っています。
ここは、万願寺の渡しの対面に位置します。
矢川駅や国立市役所への入口を過ぎ、緩やかな坂を上ると右手に現れるのが谷保天満宮です。
湯島、亀戸と並ぶ関東三天神の一つです。
甲州街道の左手に位置する谷保駅を越えた大学通りに、3年間通った高校があります。
右に曲がりながら坂を下りきると、そこにはガソリンスタンドがあります。
そのガソリンスタンドが、あるきろく20190526のスタート地点です。
右に分岐する多摩ニュータウン通りに入った先、某電機メーカーの工場敷地内に、初期の甲州道中の一里塚、本宿の一里塚があるそうです。
また、甲州道中が我が家に最も接近するのが、この辺りです。
本宿交番前の交差点から東に数百メートル進んだところで、Y字路が現れ、現甲州街道と離れます。旧道に入って程なくして、この立派な門があります。矢島本陣からの移築とのことですが、立派な門構えです。
府中宿に差し掛かりました。
この道の両脇も、徐々に宿場街らしくなってきました。
甲州街道の開通に伴い成り立った「番場宿」に属する村落です。
街道の南側には古刹高安寺があり、町場が街道の北側片側だけにできたことから「片町」となったようです。
幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数百三軒 街道の左右に簷を連ね」とあります。地名の起こりは、馬場の転訛や、番所があったことから、などの説があるそうです。
「現在の名称」での府中街道との交差点を一旦渡り、振り返っての写真では、正面に高札場、右手に問屋場跡があります。
府中高札場は甲州街道、川越街道及び相州街道が交差する(捉える時代によっては、甲州街道と鎌倉街道が交差する、という表現になるらしい…)府中宿の中心を占める場所でした。街道同士が鍵の手に交わっていて、「札の辻」「鍵屋の辻」と呼び親しまれていたそうです。
「札の辻」からすぐのところにある某紳士服専門店の前に立つ碑です。
番場宿の小名として名を残す集落であったようです。
それにしても、府中市に入ってから、立派な案内ばかりで驚く一方、これまでこの辺りを歩いていながらほとんど気にも留めなかった自分に反省です。
「~武蔵国の守り神~御鎮座壱千九百年」大國魂神社です。
成人の日はあまり関係なさそうですが、それでもかなり賑わっている様子でした。
大國魂神社から北へ延びるけやき並木の両側は、かつて馬場であり、馬場大門の名称もこれに由来しているとのこと。馬場は、徳川家康が大國魂神社に寄進したものと伝えられています。
丁字路に位置する商業ビルでトイレに行き、パンを購入し、外に出ると、そこにはこの看板がありました。
けやき並木の起源は、江戸時代よりはるか昔にあることを知ることができる看板です。
宿場のような名称ですが、六所宮(大國魂神社)の社に属する、農業を中心とする村落です。地名の起こりは、聖武天皇の時代に創立された国府八幡宮が鎮座していることによります。
京王線の東府中駅を過ぎたところからしばらくは、現「旧甲州街道」と江戸初期貞享年間以前の甲州古道(現「品川街道」)とを行ったり来たりして進みます。
常久の一里塚は、甲州古道沿いに残されています。
日本橋まであと7里です。
旧甲州街道に戻り、交差点を挟む形で染谷不動尊と観世音菩薩像があります。
染谷不動尊境内に、上染谷集落の説明碑がありました。
再び甲州古道に戻ります。道標には「右 品川 左 府中」との記載です。
またまた旧甲州街道に戻り、下染谷集落の碑を訪れました。
「染谷」の地名の起こりは、調布(てづくりぬの)を染めた所であった、また鎌倉時代に染殿があった、などと言われており、布を染めることに関係する地名のようです。
もともとは一つの集落あったものが、いつの頃からか「上染谷」「下染谷」と別れたようです。
仏堂の中には、石造瑠璃光薬師如来立像が安置されています。
この石像は、仙台藩士にして医師でもあった松前意仙により貞享年間に造立されたものです。松前意仙はこの像を完成させると、自ら墓穴を掘り、入定して成仏しました。その後築かれた塚が、行人塚として残されています。
府中市から調布市に入りました。
少しずつ都心に近づくなか、すごく立派で大きなお宅がありました。
塚木は榎であったようです。
隣接する駐車場の名前は、ここからとったのでしょうね。
日本橋まであと6里。
国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿の合宿により布田五ヶ宿と呼ばれる宿場です。本陣、脇本陣のない旅籠9軒の小宿であり、問屋場業務も各宿が月のうち数日ずつ交代で務めました。
祠に安置されている青面金剛像は寛政十年(1798年)の建立とのことです。
国道20号線に合流しました。
調布警察署を過ぎ、つつじが丘に向けて緩やかに上る途中に、地蔵尊が現れました。
写真には収めていませんが、この裏手は石材屋さんでした。この地蔵尊の管理はさすがにしていないか…。
更に坂を上った先にある地蔵です。
金子村に嫁いできた妙円という女性が、不幸にも失明します。
その後出家をし、村人のために念仏を唱え続けた妙円は文化二年(1805年)、浄財によりこの地に地蔵菩薩を建立します。
寛延元年(1748年)に京都の伏見稲荷に勧請し築かれた稲荷大明神とともに植えられたといわれるイチョウです。樹齢にして270年くらいでしょうか。この看板のある正面からは、竹に遮られてよく見えないため、少し移動した後全体が入る角度で撮影しました。
イチョウを過ぎたのち、一旦国道20号線から離れて旧道を進みます。国道20号線が緩やかに上っていく一方、旧道はしばらく平坦であったのち突然の急坂を駆け上がります。急坂を上り切り国道20号線と合流するところに立つ標です。
危うく気付かずに通り過ぎるところでした。
某CVSの建物に張り付くように設置されていました。
日本橋まであと5里。
徳川家所縁の尼寺跡です。左側に石塔が並んでいますが、これらの中に宝永四年(1707年)に建立された宝篋陀羅尼経之塔があります。
明治3年に内藤新宿を起点とした甲州街道に建立された新一里塚で、芝生に覆われた3メートル程度の塚の上にこの碑が建てられたそうです。碑には、内藤新宿から3里であることが記されています。
心に残る表現です。
烏山用水に架橋されていた橋のようです。
欄干を残していますが、暗渠となった用水路もそのままの形であり、かえって奇妙な光景でありました。
井の頭公園に向かう道との分岐であったようです。「是ヨリ一里半」と刻まれています。
ここで国道20号線に合流し、さらに環状8号線の高架をくぐります。
正面のビルの辺りに、上高井戸宿の本陣があったようですが、全くその痕跡はありません。
中央自動車道の下に、一里塚があったようです。
日本橋まであと4里。
中央自動車道の向こう、茶色のビル、ベージュ色のビルの辺りに本陣があったようですが、上高井戸宿同様、まったくもってその痕跡はありません。
1月13日のあるきろくは ここまで。
時間は8時間15分、歩数は56,000歩、距離は42kmでした。
見慣れた景色ではありましたが、それでもまだまだ知らないものが沢山あって、新鮮な気持ちで歩くことができました。
さて次回はついに日本橋まで到達します。
残すところあと4里弱です。
あるきろく20200104
2020年1月4日 あるきろく 甲州道中をあるく(6日目)
2019年はあっという間に過ぎ去り、新年を迎えました。
早速あるき初めです。
今回は鳥沢の一里塚からスタートです。
ちょうど日の出の頃で、きれいな宿場町の風景がありました。
国道20号線から離れ、犬目宿へ向かう山間の道に入ります。
遠くから見た時には、立っている人形は本当の人間かと思いました。
かなりシュールな絵でしたので、撮影しました。
きれいに富士山が眺められました。
大月市から上野原市に入りました。
今日は、ここまでも舗装された県道と舗装されていない道を行った入り来たりで歩いてきました。
ここからは石畳の道です。
今日、初めての一里塚です。鳥沢の一里塚から、40分ほどでの到着です。
ここはしっかりとした塚が残っていて、遠くからでもすぐに分かりました。
日本橋まであと21里です。
目にも鮮やかな鳥居がありました。
反対側(犬目宿側)から3人組のハイカーが鳥居をくぐっていきました。
また上野原市では、このような史跡そばには、立派な史跡案内図を立ててくれています。
本日最初の宿場、犬目宿です。
きれいな看板がお出迎えしてくれました。
先程の看板を過ぎ、左手に曲がるとこの街並みが目に入りました。
犬目宿の脇本陣跡です。
こちらにも、明治天皇の足跡が残されていました。
立派な石碑と丁寧な案内板がありました。
長野県内、台ヶ原宿周辺、甲州市大和町に匹敵する(を超える)充実具合です。
高台から眺める景色は絶景でした。
正面の看板には「座頭転がし」と書いてあります。
先導者の声を頼りに進んできた盲人の方達が、この屈曲した峠道で、声の方向に進んだところ深い谷に落ちてしまったことから名付けられたようです。
左側の段上には、天王様として石祠が祭られています。
とにもかくにも立派な鳥居です。
談合坂SAが見えました。
江戸時代以前のお話でした。
この一里塚も、それらしい佇まいで迎えてくれました。
恋塚の一里塚から44分。
日本橋まであと20里です。
上野原市に入ってからは、このようにポイント、ポイントには必ず看板があり、地図無しでも歩けます。
県道を離れ旧道散策となります。
今日は何度も、中央自動車道を縫うように歩いています。
この手前でも中央自動車道を跨ぎ、そして現れた丁字路でしたが、ここでも案内看板があり、迷わずにルート選択ができます。
野田尻宿に入りました。
野田尻宿にも丁寧な案内看板と明治天皇の足跡がありました。
明治天皇の碑のあるところが、本陣跡のようです。
武田信玄の時代に築かれた山城の郭や尾根を切断する堀の跡が見つかったり、また甲州道中の跡も残っていたようです。
なお芭蕉の句がありますが、これは芭蕉が立ち寄った際に詠んだ、というわけではないようです。
樹齢300年以上の立派な杉です。
地名の由来となったクヌギは、枯れて現存しないようです。
荻野の一里塚から39分で到着しました。
実際の一里塚はこの地でなく、少し江戸寄りにある切通し辺りに塚があったようです。
日本橋まであと19里です。
この先に鶴川宿があります。
蛇行しながら、坂道を下っていきます。
鶴川宿を撮影しました。
コンパクトですが、重厚な面持ちです。
碑や案内板が本当に充実しています。
上野原の市街地に入りました。
向こうの小学校に見える大きなケヤキは、樹齢800年を誇るそうです。
大門が残っていますが、その他には当時を偲ばせるものはありません。
大椚の一里塚から54分かかって到着しました。
疱瘡神社内に一里塚があるのですが、なんとも微妙な状態です。
確かに、塚として残っているようには思えるのですが…。
武田氏が設置した「甲斐二十四関」の一つであり、江戸時代になると「境川口留番所」と呼ばれたそうです。
もうすぐ、甲斐の国から相模の国に入ります。
境沢(境川)を越え、相模の国に入りました。
相模の国に入って、初めての標柱です。
ここから、再び国道を離れて古道散策となります。
先程の標柱から坂を上ること1分。
合流する道の脇に倒れた標柱がありました。
国道と再合流するポイントに、倒れた標柱がありました。
前年の台風の影響でしょうか?
関野宿の本陣跡に到着です。
相模国から甲斐国に入る直前の宿場ということで、重要な位置づけにあったようですが、今ではその面影はありません。
明治22年、その後二度の大火で焼失してしまったようです。
あずさ8号と思われます。
軽やかに駆け抜けていきました。
榎の大木が塚木であるようです。
現在は国道の方が位置が高く、塚らしさはありませんでしたが、古はどうだったのでしょう。
日本橋まであと17里です。
本陣は明治29年の大火で焼失したとのこと。
明治天皇の足跡が「聖蹟」という表記になりました。
旅籠ふじや跡は現在郷土資料館となっています。
ここでまた国道を離れ、高台に向かって進んでいきます。
椚戸旧道の下諏訪口になります。
ここからは、こまめに標柱が現れます。
椚戸旧道の江戸口となります。
舗装路には出ますが、引き続き心寂しい道を進みます。
ここまでの標柱が古びていたり、また倒れていたりしましたが、ここで急にカラフルなものが出現しました。
次に現れる標柱は…?
この標柱もカラフルでした。
この標柱から先、江戸方面には3本の道が走っていて、どれを進めば…と若干立ち止まりました。
薄いアスファルトで舗装された道を進みます。
荒れ果てた草木に行く先を阻まれ、少し高い位置にあった土道から舗装路がどこにあるか確認しています。
そしてこの先で、本日最大の危機を迎えます。
先の写真から50m程度のところに、与瀬の一里塚。
しかし、この50m程度に10分近くの時間がかかりました。
実は先の写真を撮影の後、高い位置にある土道から舗装路を見つけますが、藪に囲まれており走破するのが難しいと感じたため、土道を少し進み、舗装路が再び現れたところで降りようと画策しました。
高さにして3m程度でしょうか。
草木に足を掛けながら斜面を降りようとしましたが、足を踏み外し、転げ落ちてしまいました。
若干ではありますが、血を見る事態を招いてしまい、回復までの時間がかかった次第。
日本橋まで16里…。
与瀬の一里塚を越えたその先もまた苦難の道でした。
相模湖に注ぐ沢にかかる貝沢橋を渡るのですが、この橋が直径15cmほどの丸太?
丸太の具合を見る限り、最近ただ渡しただけと思われ、構造物ではないです。
もちろんそんな「橋」を渡れるはずもなく、岩から岩へと飛び移り、対岸に渡りました。
それを越えての與瀬神社です。
建物は近代のものと思われますが、築山もある広い敷地に圧倒されました。
相模湖駅を越え、ここで国道を離れます。
ここまで来ると、見覚えのある景色となります。
えんどう坂と階段を上ってきました。
中央自動車道の相模湖東IC目の前です。
中央自動車道をくぐり、国道20号線を横断して進みます。
再度国道に合流すると、そこは小原宿。
神奈川県の指定重要文化財となっているそうです。
神奈川県内では、当時の本陣で唯一現存するものとのことです。
大垂水峠に向かう国道20号線とはここでお別れ。
笹子峠と並ぶ難関、小仏峠越えに挑みます。
台風の爪痕です。
一里塚跡の説明看板も、無残な状態でした。
塚そのものは、上を走る中央自動車道敷設時に切り崩されたそうです。
日本橋まであと15里です。
足元に標柱や馬頭観音がありました。
ここまでは、急坂でありながらも舗装路でしたが、本格的な山道に入ります。
本日すでに30km以上を歩き、またアップダウンのある道のりであったため、結構足腰に来ています。
山道も最後の1kmは休み休み登りました。
後は下るだけです。
明治天皇の移動は乗馬?籠?それとも徒歩?
ここでもお休みをされたとのことです。
ここにきて通行止めですか!
どうする…。
①高尾山方面に進む
②景信山経由で小仏宿に向かう
結果としては②を選択しました。
5月2日の「藤野駅~陣馬山~景信山~高尾山」縦走時にもこの眺望を楽しみましたが、本当に絶景です。
ただし、小仏峠以後は下るだけと思っていたところでの、更なる山登りを強いられ、
脚には痛みを生じるわ、あたまもボーっとしてくるわ、で辛かったです。
甲州道中であれば沢沿いに歩き20分程度の距離だったはずですが、景信山経由により小仏峠から70分かかりました。
※景信山山頂の茶屋で15分程度休憩もしましたが…。
景信山から下山した皆さんは、小仏バス停からバスに乗車されました。
歩いているのは自分ひとり。
峠越えをして最初の宿場は小仏宿ですが、見るべきものがなく通過してきました。
そして、次がここ駒木野宿です。
碑だけが存在し、敷地は公園になっています。
「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まったそうです。
開門時間は午前6時~午後6時。
実際には宿と関所が同じロケーションにあった様子。
駒木野宿内には、現存しませんが一里塚もあったとのことです。
日本橋まで13里です。
この後、高尾駅北口まで歩き、本日の行程を終了しました。
高尾駅到着時に写真を撮り忘れたため、駒木野宿・小仏関所の写真でおしまいです。
ということで1月4日のあるきろくはここまで。
時間は8時間50分、歩数は56,100歩、距離は42.2kmでした。
日本橋までの残りの距離は、頑張れば1日でも歩ける距離となりました。
また、スタート地点まで、ゴール地点からの行き来の時間を短くできます。
現実的にはあと2日、かな。
あるきろく20191214
2019年12月14日 あるきろく 甲州道中をあるく(5日目)
前回笹子峠を越えたのは、まだ真夏の8月18日でした。
その後、人生初の入院をしてお休みをすることになりました。
回復を待つうちに、気が付けばいつの間にか冬になっていました。
さて、本日は笹子駅からのスタートです。
すでに10時24分です。
本当は9時には出発したいと思っていましたが、家を出るのが遅れ、電車の接続も悪くこの時間に…。
何はともあれ、4カ月ぶりのスタートです。
前回も阿弥陀堂跡を訪ねる際に通りましたが、大きな蔵元です。
天気予報では、暖かくなるとのことでしたが9度でした。
苦行の8月5日と比べると、30度近く気温が異なります。
笹子川と中央本線と甲州道中が絡み合いながら大月市街地方面に向けて進みます。
ところどころ、旧道を近現代の構造物により遮ります。
しばらく車通りのない道を進みます。
白野の一里塚です。
日本橋から26里目とのことです。
笹子峠の手前、甲州市では標柱がきれいに管理されていましたが、この標柱は読めなくはないものの、かすれた文字で存在感が薄いものでした。
親鸞聖人が船形の石の上に座って説法を行ったそうですが、その石は水害で流れてしまい、なくなってしまったようです。
この奥、少し上がったところに首塚があるそうですが、訪れる勇気はありませんでした。
下諏訪からの順では、黒野田、阿弥陀街道、白野の次の宿場となる中初狩宿です。
ここにも明治天皇の足跡が残っていました。
「山賊のおとがいとずる葎かな」
笹子峠の手前にも句がありましたが、松尾芭蕉の実姉が初狩に住んでいたことも、甲州道中に松尾芭蕉の句碑がたくさん存在する理由でしょうか?
笹子駅前にもありましたが、この辺りのポイントには「山梨県東部JR八駅トレッキング推進協議会」の立てた標識がきれいに管理されています。
見えている碑には、小説家の「山本周五郎生誕之地」とありました。
あるきはじめのころなら、おそらく左の道に進んでしまうところですが、さすがにもう慣れてきたのか、真っ直ぐの道が甲州道中であることに気が付きました。
「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」という歌碑です。
1806年に建てられたそうです。
この先の踏切を渡ると、ツアーでしょうか、20人くらいの集団とすれ違いました。
先程の踏切を渡った後、しばらく線路脇の心寂しい砂利道を進みます。
この先も山側に道は続くのですが、先の先で、線路と川に遮られるようです。
したがって、ここで橋を渡り、国道に移ります。
しばらくは行けそうですが、ガイド本では数km行った先で行き止まり。
ここで引き返します。
まだ道は続いているようですが、仕方がありません。
国道20号を進むことにします。
なお、下初狩宿で一旦離れ、ここで戻ってくるまでに、国道20号の日本橋からの距離表示が100kmを切っていました。
以前中央本線の中から見た時にも不思議に思いましたが、大月警察署は市街地から離れた場所にあります。なんでだろう?
ちなみにここの気温は13度。
実はだいぶ前からパーカーを脱ぎ、加圧ロングTシャツと半そでTシャツの重ね着のみで歩いています。
立派な建物と誰もが分かるような立派な石碑でお出迎えしてくれました。
以前の建物は1835年に焼失し、この建物は再建されたもの(国重要文化財)のようです。
復元されたとのことですが、久しぶりに塚木のある一里塚です。
日本橋から24里目とのことです。
また、一里塚だけでなく、松尾芭蕉の句碑や庚申塔、道祖伸、馬頭観音、そして大月市による解説版などいろいろと並んでいました。しかし、解説版の文字が全く読めないほどに消えていて残念でした。
宿場の痕跡はなく、「明治天皇御召喚所」の碑のみ鎮座しておりました。
石碑をよく眺めたのですが、残念ながら字が読み取れませんでした。
ガイド本によると「右甲州道中 左ふじミち」と書いてあるそうです。
富士山道追分道標からここまでは、交通量の多い通りを離れ、大月駅付近の商店街などを抜けて、ここに至ります。
白野の一里塚と同じ、木柱による一里塚跡の標柱でした。
ここも文字がきれいには読み取れない状態でした。
日本橋から23里目とのことです。
写真では見たことがありましたが、現物を見たのは初めて。
橋脚のない、古い橋となると渡るにも勇気がいるところですが、実際には昭和59年に復元されたものとのことで、安心して渡らせていただきました。
7月12日に歩いた蔦木宿と似た雰囲気がありました。
ここにも当然の如く明治天皇の痕跡がありました。
ここの標柱は、かろうじて字が読める状態でした。
日本橋から22里目です。
この一里塚は、中央本線鳥沢駅からすぐの場所にありますが、この先しばらく甲州道中は中央本線から離れます。再び接近するのは、20km弱先の関野宿・藤野駅辺りです。
今日は久しぶりということもあり、この時点でだいぶ足腰に来ています。
また、この先藤野駅までどれくらい時間がかかるかを考えましたが、3時間では難しく、時期的にも暗くなってしまうだろう、とここ上鳥沢の一里塚で終わりにすることにしました。
体力の問題もありますが、当初予定していた笹子駅9時出発であれば、日のあるうちに藤野駅まで行けたかな、と反省しました。
ということで、本日歩いた時間は3時間半弱、距離は18.5km、24,700歩の行程でした。
次回は、上鳥沢の一里塚を出発し、与瀬宿(相模湖駅)を目標としたいと思います。
あるきろく20190818
2019年8月18日 あるきろく 甲州道中をあるく(4日目)
公共交通機関の計画運休を招いた大きな台風も過ぎ去った、日曜日。
ついに、甲州道中で最大の難関、笹子越えに挑みます。
山道を歩くことを想定して、今回はトレッキングシューズを履いていこう、と玄関を出たところで、何と靴底が剥がれ落ちるアクシデント発生‼︎
いつ買ったかはうろ覚えですが、高校生の頃には履いていたから、30年くらいは経つのかなぁ…。
そんなこんなで、いつものスニーカーでスタートです。
前回のゴール地点、鶴瀬関所跡を出発です。
今回は、難関の笹子越えはしますが予定距離は短いので、スタートも遅めです。
甲州道中から若干離れましたが、今回こそは、史跡を丹念に拾っていこうと寄り道しました。
国道20号線から笹子峠へ向かう県道に入ります。
写真では左が県道です。
甲州道中はこの右側の上り坂を進みます。
甲州市でも、大和町に入って以降、標柱が立派です。
いかにも、な雰囲気の坂道を上っていきます。
日差しはありますが、前回ほどの暑さではありません。
頑張って進みましょう。
巡礼僧が追い剥ぎに遭ったそうです。
それを村人が供養するために、と造ったそうです。
橋桁に手が届くような距離感です。
日本橋もそうですが、橋がない景色を見てみたいものです。
曲がりくねった坂道を右に曲がったところで、この表札に出会いました。
急坂の途中でもあり、まだ宿場の雰囲気はありません。
坂道も緩やかになり、 道中を挟み込むように建物が密集してきました。
駒飼宿の本陣跡に到着です。
下諏訪から数えると、鶴瀬宿の次の宿場です(鶴瀬宿と合宿)。
そしてここにも、明治天皇の足跡がございました。
写真には入れませんでしたが、暑い中草刈りをするおじさんがいらっしゃいました。
「秣負う人を栞の夏野哉」…。
『奥の細道』で詠んだ句のようです。
秣(まぐさ)とは馬草であって、馬の餌だそうです。
「栞(しおり)」は「枝折」とも書くようですが、自分の歩いた跡として枝を折って置いていく、ことからきているようです。つまり、道標ということのようです。
それを踏まえて、この句を詠んでみましょう。
これまでにも悩まされた害獣ネットです。
通電しているかも、とゴム手袋を用意してくるつもりでしたが、持参せず。
恐る恐るゲートに触れてみると…大丈夫でした。
解錠して進むことにします。
ガイド本では「通行不可」とされている、荒れ果てた道です。
この先、倒木もあり、道全体が沢のように水にあふれていたり、で苦労しました。
駒飼の一里塚です。
日本橋から28里との記載がありますが、29番目の一里塚である、という説が有力のようです。
とにもかくにも、これに出会うために、あのゲートを越えて進んできました。
このまま先に、本当の旧道跡を歩いてみたいと思いましたが、右を流れる沢の勢いもすごく、またここに至るまでにもスニーカーで歩くにはギリギリであったことから、泣く泣く断念し、県道に戻って歩くことにします。
昭和47年まではこの道が国道20号線として、甲府盆地と東京方面とを結んでいました。
九十九折りの県道では笹子峠まで6.2km。
後ほど、再び旧道の山道も歩きますが、その場合には何km歩くのかな?
駒飼の一里塚の先を進む旧道と、この桃の木茶屋跡で合流します。
ここに立って旧道方向を見ると、何となく歩けそうな気もするのですが…。
県道から離れ、旧道である山道に入っていきます。
旧道も入口付近は、きれいに整備され、歩きやすい道でした。
歩みを進めるうちに、気が付けば、道は整備されているわけでもなく、木立の間隔と踏み固められた地面を参考に進むようになります。
このように枝分かれする場所では、標識が不可欠です。
幅がありましたので、渡る前には何とも思っていませんでしたが、結構な朽ち具合で冷や汗ものでした。
進むべき道が分からず、そこにあった一等水準点を眺め、気持ちを落ち着けているところです。
何となくながらもこっちだろうか?と考えている方向を写しています。
幅は狭いものの、木の並びと踏み固められた地面を見て、一安心。
一旦、山道から林道に出ます。
入口こそ階段になっていますが、その奥はまた険しそうな山道です。
桃の木茶屋跡から30分で、甘酒茶屋跡に到着です。
これだけの険しい道程では、やはり甘い物、飲み物が必要になりますね。
ガードレールの下に、笹子峠への道標が見えます。
笹子隧道が見えます。
昭和11年に起工し、昭和13年に開通した笹子隧道。
全長239mですので、歩いて通れば3分程度の距離です。
せっかくの機会ではありますが、もちろん今日は通りません。
笹子峠はすぐそこです。
山道に戻ります。
旧道から笹子隧道を見下ろします。
やはり道はあるようで、ないような。
でも、もう少しで峠に到達です。
頑張りましょう。
笹子峠に到着しました。
標高1,096mとのことです。
さっきの一等水準点からでも163m上ったことになります。
来た道を振り返ると、切通しの形の峠道であることがよく分かります。
笹子峠から、崖を転げ落ちるようにしながら、ここに到達しました。
「クマ出没注意必要」とありますが、おかげさまで大丈夫でした。
ちなみに甲州市側には「ハチに注意」の看板が倒れていました。
おにぎりを食べながら、県道を数百m進みました。
この分岐で、汗まみれのTシャツを着替えます。
そしてまた山の中へと入っていきます。
尾根から沢沿いの谷に向かって、木立のトンネルを進みます。
急な下り坂 が続き、ここで2回ほど滑ってしまいました。
トレッキングシューズが必要でした…。
しばらく目印もなく、何となくこっちだろう、で進んでいます。
足元の踏み固め具合だけを頼りに進んだところ、沢と沢の合流地点に到達しました。
どうにもこうにも先に進めない…。
数百m戻ったところ、沢を跨ぐ小橋を発見。
それを渡ると、矢立の杉に辿り着けました。
矢立の杉はあまりにも立派で大きく、フレームには収まりません。
また、歌手の杉良太郎さんが歌われる「矢立の杉」の歌碑が設置されており、
その傍らにはゼンマイ式で歌が流れるスピーカーがありました。
峠を挟み、多くの茶屋があります。
ここにも明治天皇御野立所跡がありました。
また、この前を通る道はいかにも街道然とした、そんな風情を感じました。
いったん県道に出ます。
矢立の杉がこの辺りの大きな観光資源であることがよく分かります。
左手に沢の音を聞きながら、杉林の中を進みます。
やっと山道から抜けることができました。
黒野田宿に向かいます。
臨済宗のお寺さんの門を挟んで、一里塚の標柱が立っています。
標柱には江戸より25里とありますが、27里目という説が有力なようです。
立派な本陣門が現存しています。
その脇には、明治天皇行在所跡の標柱があります。
天保の大飢饉による窮乏を心願したもの、だそうです。
笹子駅辺りにあったであろう阿弥陀街道宿の痕跡は見当たりませんでした。
そこで、笹子駅を通り過ぎ、甲州道中を少し離れ、阿弥陀街道宿の地名の由来となった「阿弥陀堂」の跡を訪問しました。
8月18日のあるきろくはここまで。
時間は約3時間半、歩数は約19,700歩、距離は15km強でした。
最難関の笹子越えを終え、また道中のおよそ半分まで来ました。
日本橋への到達はいつになるでしょうか。
【番外編】
笹子駅といえば、昔はスイッチバックであった、急勾配上にある駅です。
あるきろく20190805
2019年8月5日 あるきろく 甲州道中をあるく(3日目)
長かった梅雨も明け、毎日暑い日が続きます。
今回は、韮崎宿から鶴瀬宿を目標に、甲州道中をあるきます。
ただし、甲府盆地は暑い!前日は勝沼で37度に達したとか…。
では、スタートです。
ここからはしばらく東南東方向にまっすぐ進みます。
塩川を渡り、甲斐市に入ったところで、県道から旧道に入ります。
それぞれの家の塀や庭の広さに、雰囲気が漂っています。
甲州道中から200m程度外れた位置にありましたが、今回はできるだけ多くの史跡を拾い集めていこうと思っていました…この時点では。
「昼見れば首すじ赤き蛍哉」だそうです。
この時点では、足取りも軽く、いろいろ撮影しながらあるきます。
写真にはうまく収められませんでしたが、県道の両側に同じような塀や壁造りの建物が並んでいます。
戦国時代のお話でした。
今回最初の難関ポイントでした。
国道20号線と、ここまで歩いてきた県道がX字で交わり、またそこに細い道が加わっていて、どの道が正しいのかとても不安でした。
そんな中、振り返ってみると、こんな優しい案内がありました。
(矢印とは反対方向にあるいています)
日差しが強く、字がはっきりと見えません。
日差しが強く、いつもとはまるで別人のように、水分補給を行っています。
いくつかのお地蔵さんと、道標がありましたが、近寄ることはできませんでした。
管理状態も、あまりにも酷いなぁ…と思うところです。
今回は、この辺りが気持ち的にもMAXの状態でした。
盆地に向かって下りが続き、足取りは軽やか。
その向こうには富士山が見える。
街路樹があったりして、涼しい時間も得られました。
今回もまた発見しました、明治天皇の足跡。
ここでも優しい心遣い。
でも、もう少し大きく、そしてちゃんとした造作物であってもいいのにね…。
甲府市に入りました。
旧道を見逃さぬよう、できるだけ甲州道中のガイド本とスマホを手に持って歩くようにしていますが、これだけ暑いと、汗でブックカバーも破れます。
したがって、分かりやすい目印を決めて、そこまでは本やスマホをリュックにしまって歩くようにしました。
竜王から甲府に入るまでの、とりあえずの目印を「甲州ほうとう小作」として、「小作、小作、…」とつぶやきながら歩いているうち、頭の中ではサブちゃんの与作に変調してしまったほどのトランス状態。
甲府市の中心部に入ってきました。
甲府柳町宿を示す碑などを見つけることはできませんでした。
ここまでの宿場の中でも、教来石宿を上回る「何もなさ」です。
この後、暑さ凌ぎで某デパートにお邪魔し、日に当たっていた部分を水で冷やし、日焼け止めクリームを厚めに塗りなおしました。
ここでの30分余りの休息が、あとで影響するとは思いもせず…。
真っ黒で何も見えない写真となりました。
明治5年創刊の峡中新聞(現 山梨日日新聞)は現存最古の地方紙、とのこと。
実は、今回もっとも楽しみにしていたポイントです。
ですが、それらしい表記もなく、拍子抜けしてしまいました。
新宿追分で再び青梅街道と出会えるのは、いつの日だろうか?
石和宿の入口(江戸側からだと出口)に当たるのでしょうか。
なお、この手前でも、暑さに耐えられずCVSでアイスコーヒーと某氷菓を購入し、しばし休息。
氷菓はすぐには食べず、タオルで包んで、首に巻いて歩くことにしました。
石和宿に到着です。
下諏訪からでは、甲府柳町宿の次の宿場となります。
このフェンス、ない方がよいと思うのは、私だけではないはずです。
国道から一段下がったところを旧道は進みます。
風情ある松並木、と思いましたが、植樹は、笛吹川の大氾濫があった後の明治40年であったそう。
石和宿本陣跡からこのあたりまで、小さな交差点があるたび、「☜石和温泉駅」の看板を目にし、とても悩んでしまいました。
ここを過ぎると、しばらく甲州道中と中央本線は離れ離れになります。
悩みながら、当初の予定通り、甲州道中を進むことにしました。
観光でこの辺りを訪れるのであれば、あの斜面の方に行くんだろうなぁ…。
ほったらかし温泉にものんびりとつかりたいなぁ…。
とか思いながら、この辺りからは本当に「苦行」という感覚に陥っていきます。
可愛らしいネーミングですが、「苦行」中の私にはあまり響きませんでした。
甲州道中は左手の土手道を進みます。
また、ありました。
道を挟んでCVSがありましたので、再びアイスコーヒーと某氷菓を購入しました。
アイスコーヒーを飲み終わった後の氷を、何のためらいもなく頭に落としての道中リスタートでございました。
この数本の標識を見るうちに、甲州道中は緩やかな坂道になってきました。
本当に緩やかな坂道で、普段なら歩くだけで体力を消費するなど考えられません。
しかしながら、今回は、ここから本当にきつくてきつくて参りました。
道端は果樹園ばかりで、宿場のような雰囲気も全くなく、突然この標識が目に入りました。
下諏訪から数えると、石和の次の宿場となります。
ここから勝沼宿、そして横吹の一里塚辺りまでが、今回のピークでした。
体力的にも本当に厳しく、ところどころで膝に手を置き立ち止まる。
日陰になっている、腰かけられる段差を見つけてはへたり込む。
高校の部活以来です、これだけハードに感じたのは。
体力面でだいぶ弱っており、また電車の時刻も気になり始め、精神的にもグダグダな感じになってしまいました。
先の道路標識の写真の地点から、ここまで1km程度です。
普段であれば10分~15分で歩ける距離ですが、なんと30分もかかりました。
止まって、座ってがあってではありますが、いま改めて、こんなにかかっていたことに驚いています。
勝沼宿本陣跡に到着です。
下諏訪から数えると、栗原宿の次となります。
おざなりな写真で恐縮です。
下に降りて草をかき分ければよいのでしょうが、その気力がありませんでしたので、国道上から失礼いたしました。
今現在、塚木は無いようです。
横吹の一里塚を過ぎると、高台を走る国道から逸れて下っていく道があります。
これが横吹の古道で、若干の民家はありながらも、途中からは鬱蒼とした茂みの中を進む感じです。
上を走る国道をくぐったのち、舗装されていない山道を登ることになります。
木々が写る写真の土の部分が上ってきた道です。
木々の隙間(右側)に、見えますでしょうか。
オレンジ色のセンターライン。
これが先程くぐった国道です。
いっぺんに高いところまで、葉っぱやクモの巣をかき分けながら上ってきました。
なんとか、本日の目的地とした鶴瀬宿に到着しました。
江戸からは31番目の宿場なんですね。
江戸へは、まだ30里27丁…120kmくらい残っているのか!
下諏訪からは23里くらい歩いたことになります。
8月5日のあるきろくはここまで。
時間にして約7時間30分、歩数は約47,500歩、距離は約38kmでした。
次回はこの関所からスタートすることにします。
いよいよ最難関の笹子越えです。
これまでの経験者の皆さんのブログなどを参考にしながら、シミュレーションをしておきます。
駒飼の一里塚を見るためには、ゴム手袋が必要ですか???
あるきろく20190712
2019年7月12日 あるきろく 甲州道中をあるく(2日目)
前回6月16日は、最後に甲州道中を外れてしまう失態を犯してしまいました。
今回のスタートは、気付かずに通り過ぎてしまったY字路から、となります。
地図や甲州道中のガイド本を頼りに分岐を探しましたが、よく注意していないと、通り過ぎてしまいますね。
今回は、間違いなく進みます。
ずっとなだらかに上っていきます。
この辺り(右側)は、セイコーエプソンの施設やグラウンドが続きます。
この日は、パラパラ雨の降る中のスタート。
路面も前日からの雨で濡れています。
立派な大木が見えてきました。
塚木ですね。
6月16日と同じアングルで撮ります。
標高917m。
前回の失敗を清算して、では改めてスタートです。
雨が上がり、雲も切れてきました。
先の茂みに向かって進みます。
甲州道中は本来左手の道であったようですが、三菱マテリアルさんの私有地になっており、通行できないとのこと。
一応、左手に行くだけ行ってみます。
ポツンと一軒家!があらわれたその先は、やはり行き止まりでした。
先程のY字路を右に進み、砂利道を歩きます。
三菱マテリアルさんの敷地内を覗くと、一面のソーラーパネルでした。
迂回路を通ってきましたが、ここから甲州道中に戻ります。
ご丁寧に道標が立っていました。
この写真は、江戸側から写しています。
塚平の一里塚、と言うようです。
北側の塚木が残っていました。
この一里は、44分かかりました。
写真では分かりづらいですが、幹が本当に赤い、赤松が並んでいました。
樹齢が200年以上の風除林とのことです。
江戸から見て、Y字路に立つ道標です。
右に進むと、八ヶ岳方面です。
我が家のすぐそばにも、明治天皇が巡幸した際の碑が立っていますが、甲州道中でもお会いしました…というか、この後、頻出します。
写真では奥に見える甲州道中から、若干離れた位置にありました。
平岡の一里塚、というようです。
耕地整理の際に、ここに立てられたようです。
ここまでの一里は、43分。いい感じに歩けています。
平岡の一里塚からここに至るまでが、ものすごく大変でした。
ガイド本に、害獣ネットがある旨、そして「不安な場合には国道20号を迂回する」と記載がありましたが、「不安な場合には~」とのことなので、大丈夫だろうと高を括って進んだら、痛い目に遭いました。
不安も何も、万全な害獣ネット故、とてもとても通れる代物ではありません。
高を括って数百m進んで、ダメと分かって戻っての迂回進行、ダメージ大。
蔦木宿です。
下諏訪から数えると、金沢宿の次の宿場になります。
宿場町の風情が残る街並みです。
それぞれの建物には、当時の(?)屋号の表札(蔦木宿〇〇屋)が下がっていました。
また、ここでも、明治天皇の足跡が窺い知れました。
道路改良により、若干の移動をしたようですが、この辺りが江戸側から蔦木宿への入口に当たるようです。
信濃国と甲斐国の境にある橋で「国界橋」。
ここもまた、厳重な害獣ネットで防御されており、渡れません。
国道20号線で迂回することにします。
通せんぼの国界橋を遠くに眺めます。
本来の甲州道中は、あの橋を渡ったのち、左手の樹木の下を歩くようです。
迂回はしましたが、ここで甲斐国に入ります。
本来の甲州道中は右手から現れ、そのまま左に見える道に入っていきます。
国道20号線はすぐそばを走っていますが、如何にも旧道然の甲州道中です。
西番所は徳川幕府が設置した番所で「女改め」の取締りが厳しかったそうです。
山口関所は、信州口を見張った国境の口留関所です。
また現れました、明治天皇の足跡。
写真は撮りませんでしたが、少し手前にも「御膳水跡碑」がありました。
田植えを見て、碑が建つ。どんな田んぼなのかというと…
眼下に広がり、確かに絶景ではあります。
教来石宿の本陣跡であり、明治天皇が休憩をした場所でもあります。
教来石宿は、下諏訪から数えると蔦木宿の次の宿場です。
蔦木宿と比べると、それらしい雰囲気があまり残っていません。
今日の甲州道中あるきも、3時間20分ほど経ちました。
ここで初めてコンビニを見ました。
いったん国道20号線に合流します。
歩いてきた道を振り返ります。
舗装を見ると、どちらが古くからある道か、良く分かります。
右手に新しい建物で営業していますが、古い建物も残しています。
情緒たっぷりの建物です。
久しぶりの一里塚です。
45番目:山口の一里塚、44番目:鳥原の一里塚は、塚木や石碑もありませんでした。
ここも、宿場内ということで、塚木は無いようです。
右手の金精軒は、元祖「信玄餅」の老舗とのことです。
酒蔵のようです。
またまた、明治天皇の足跡が現れました。
それにしても立派な建物です。
台ヶ原宿は、下諏訪から数えると、教来石宿の次となります。
蔦木宿、教来石宿からは、続けて一里強ほどの間隔で設けられています。
台ヶ原宿は、当時の様子も残しつつ、今の生活も垣間見える、素敵な街並みでした。
ここでまた国道20号線と出会います。
しかし、横断して、すぐに旧道散策となります。
国道20号線を横断歩道で渡り、すぐ右手の「古道」へと入っていきます。
立派な石標が立っていました。
長野県内は、各自治体(主に教育委員会)が、甲州道中の歴史保存をしている印象。
山梨県に入ると、自治体より小単位の地区単位で整備をしているように感じました。
台ヶ原地区は、各所に、それも立派な案内などが設置されていました。
荒々しく流れています。
碑のオンパレードです。
下諏訪からではあまり恩恵は受けませんが、江戸から来る方には分かりやすいです。
何せ、古道・旧道はどこから始まっているのか、どこまで続くのか、どこで終わっているのか、分かりづらいですから。
ここで現れるのが、甲府起点の一里塚。
甲府から七里の距離だそうです。
台ヶ原こそありましたが、江戸起点の一里塚跡はこの前後に見当たりません。
続けて現れました。
甲府から六里目の一里塚。
やはり江戸起点の一里塚には出会えません。
ちなみにこの一里は43分。ペースとしては良い感じ。
深さはあまり無いようですが、広く、そしてすごい勢いで流れています。
向かいの岩肌がまた風情を醸し出しています。
旧道然とした、重みのある素晴らしい街並みです。
左側には、茅葺の門が見えます。
武田家に仕えた名家らしいです。
先程のポイントから、5分ほど歩くと、突然家屋の雰囲気が変わりました。
普通の住宅地、に戻ってしまいました。
街並みもすっかり普通の市街地です。
にらさき文化村は、小林一三の生誕地跡とのことです。
阪急東宝グループ、宝塚歌劇団の創始者ですので、関西の出身と思っていましたが、山梨県の方だったのですね。
韮崎宿に到着です。
実は、この石標に気付かず、数百m通り過ぎておりました。
慌てて戻っての、写真撮影です。
あまりにも街の風景に溶け込みすぎていて…。
7月12日のあるきろくはここまで。
時間にして7時間5分、歩数は約48,500歩、距離は約38kmでした。
次は、韮崎宿本陣跡をスタートし、目標は鶴瀬宿への到達です。
韮崎宿⇒甲府柳町宿⇒石和宿⇒栗原宿⇒勝沼宿⇒鶴瀬宿
鶴瀬宿を越えると、遂に笹子越え。
甲州道中随一の難所への挑戦です。