あるきろく20190712
2019年7月12日 あるきろく 甲州道中をあるく(2日目)
前回6月16日は、最後に甲州道中を外れてしまう失態を犯してしまいました。
今回のスタートは、気付かずに通り過ぎてしまったY字路から、となります。
地図や甲州道中のガイド本を頼りに分岐を探しましたが、よく注意していないと、通り過ぎてしまいますね。
今回は、間違いなく進みます。
ずっとなだらかに上っていきます。
この辺り(右側)は、セイコーエプソンの施設やグラウンドが続きます。
この日は、パラパラ雨の降る中のスタート。
路面も前日からの雨で濡れています。
立派な大木が見えてきました。
塚木ですね。
6月16日と同じアングルで撮ります。
標高917m。
前回の失敗を清算して、では改めてスタートです。
雨が上がり、雲も切れてきました。
先の茂みに向かって進みます。
甲州道中は本来左手の道であったようですが、三菱マテリアルさんの私有地になっており、通行できないとのこと。
一応、左手に行くだけ行ってみます。
ポツンと一軒家!があらわれたその先は、やはり行き止まりでした。
先程のY字路を右に進み、砂利道を歩きます。
三菱マテリアルさんの敷地内を覗くと、一面のソーラーパネルでした。
迂回路を通ってきましたが、ここから甲州道中に戻ります。
ご丁寧に道標が立っていました。
この写真は、江戸側から写しています。
塚平の一里塚、と言うようです。
北側の塚木が残っていました。
この一里は、44分かかりました。
写真では分かりづらいですが、幹が本当に赤い、赤松が並んでいました。
樹齢が200年以上の風除林とのことです。
江戸から見て、Y字路に立つ道標です。
右に進むと、八ヶ岳方面です。
我が家のすぐそばにも、明治天皇が巡幸した際の碑が立っていますが、甲州道中でもお会いしました…というか、この後、頻出します。
写真では奥に見える甲州道中から、若干離れた位置にありました。
平岡の一里塚、というようです。
耕地整理の際に、ここに立てられたようです。
ここまでの一里は、43分。いい感じに歩けています。
平岡の一里塚からここに至るまでが、ものすごく大変でした。
ガイド本に、害獣ネットがある旨、そして「不安な場合には国道20号を迂回する」と記載がありましたが、「不安な場合には~」とのことなので、大丈夫だろうと高を括って進んだら、痛い目に遭いました。
不安も何も、万全な害獣ネット故、とてもとても通れる代物ではありません。
高を括って数百m進んで、ダメと分かって戻っての迂回進行、ダメージ大。
蔦木宿です。
下諏訪から数えると、金沢宿の次の宿場になります。
宿場町の風情が残る街並みです。
それぞれの建物には、当時の(?)屋号の表札(蔦木宿〇〇屋)が下がっていました。
また、ここでも、明治天皇の足跡が窺い知れました。
道路改良により、若干の移動をしたようですが、この辺りが江戸側から蔦木宿への入口に当たるようです。
信濃国と甲斐国の境にある橋で「国界橋」。
ここもまた、厳重な害獣ネットで防御されており、渡れません。
国道20号線で迂回することにします。
通せんぼの国界橋を遠くに眺めます。
本来の甲州道中は、あの橋を渡ったのち、左手の樹木の下を歩くようです。
迂回はしましたが、ここで甲斐国に入ります。
本来の甲州道中は右手から現れ、そのまま左に見える道に入っていきます。
国道20号線はすぐそばを走っていますが、如何にも旧道然の甲州道中です。
西番所は徳川幕府が設置した番所で「女改め」の取締りが厳しかったそうです。
山口関所は、信州口を見張った国境の口留関所です。
また現れました、明治天皇の足跡。
写真は撮りませんでしたが、少し手前にも「御膳水跡碑」がありました。
田植えを見て、碑が建つ。どんな田んぼなのかというと…
眼下に広がり、確かに絶景ではあります。
教来石宿の本陣跡であり、明治天皇が休憩をした場所でもあります。
教来石宿は、下諏訪から数えると蔦木宿の次の宿場です。
蔦木宿と比べると、それらしい雰囲気があまり残っていません。
今日の甲州道中あるきも、3時間20分ほど経ちました。
ここで初めてコンビニを見ました。
いったん国道20号線に合流します。
歩いてきた道を振り返ります。
舗装を見ると、どちらが古くからある道か、良く分かります。
右手に新しい建物で営業していますが、古い建物も残しています。
情緒たっぷりの建物です。
久しぶりの一里塚です。
45番目:山口の一里塚、44番目:鳥原の一里塚は、塚木や石碑もありませんでした。
ここも、宿場内ということで、塚木は無いようです。
右手の金精軒は、元祖「信玄餅」の老舗とのことです。
酒蔵のようです。
またまた、明治天皇の足跡が現れました。
それにしても立派な建物です。
台ヶ原宿は、下諏訪から数えると、教来石宿の次となります。
蔦木宿、教来石宿からは、続けて一里強ほどの間隔で設けられています。
台ヶ原宿は、当時の様子も残しつつ、今の生活も垣間見える、素敵な街並みでした。
ここでまた国道20号線と出会います。
しかし、横断して、すぐに旧道散策となります。
国道20号線を横断歩道で渡り、すぐ右手の「古道」へと入っていきます。
立派な石標が立っていました。
長野県内は、各自治体(主に教育委員会)が、甲州道中の歴史保存をしている印象。
山梨県に入ると、自治体より小単位の地区単位で整備をしているように感じました。
台ヶ原地区は、各所に、それも立派な案内などが設置されていました。
荒々しく流れています。
碑のオンパレードです。
下諏訪からではあまり恩恵は受けませんが、江戸から来る方には分かりやすいです。
何せ、古道・旧道はどこから始まっているのか、どこまで続くのか、どこで終わっているのか、分かりづらいですから。
ここで現れるのが、甲府起点の一里塚。
甲府から七里の距離だそうです。
台ヶ原こそありましたが、江戸起点の一里塚跡はこの前後に見当たりません。
続けて現れました。
甲府から六里目の一里塚。
やはり江戸起点の一里塚には出会えません。
ちなみにこの一里は43分。ペースとしては良い感じ。
深さはあまり無いようですが、広く、そしてすごい勢いで流れています。
向かいの岩肌がまた風情を醸し出しています。
旧道然とした、重みのある素晴らしい街並みです。
左側には、茅葺の門が見えます。
武田家に仕えた名家らしいです。
先程のポイントから、5分ほど歩くと、突然家屋の雰囲気が変わりました。
普通の住宅地、に戻ってしまいました。
街並みもすっかり普通の市街地です。
にらさき文化村は、小林一三の生誕地跡とのことです。
阪急東宝グループ、宝塚歌劇団の創始者ですので、関西の出身と思っていましたが、山梨県の方だったのですね。
韮崎宿に到着です。
実は、この石標に気付かず、数百m通り過ぎておりました。
慌てて戻っての、写真撮影です。
あまりにも街の風景に溶け込みすぎていて…。
7月12日のあるきろくはここまで。
時間にして7時間5分、歩数は約48,500歩、距離は約38kmでした。
次は、韮崎宿本陣跡をスタートし、目標は鶴瀬宿への到達です。
韮崎宿⇒甲府柳町宿⇒石和宿⇒栗原宿⇒勝沼宿⇒鶴瀬宿
鶴瀬宿を越えると、遂に笹子越え。
甲州道中随一の難所への挑戦です。