あるきろく20200104
2020年1月4日 あるきろく 甲州道中をあるく(6日目)
2019年はあっという間に過ぎ去り、新年を迎えました。
早速あるき初めです。
今回は鳥沢の一里塚からスタートです。
ちょうど日の出の頃で、きれいな宿場町の風景がありました。
国道20号線から離れ、犬目宿へ向かう山間の道に入ります。
遠くから見た時には、立っている人形は本当の人間かと思いました。
かなりシュールな絵でしたので、撮影しました。
きれいに富士山が眺められました。
大月市から上野原市に入りました。
今日は、ここまでも舗装された県道と舗装されていない道を行った入り来たりで歩いてきました。
ここからは石畳の道です。
今日、初めての一里塚です。鳥沢の一里塚から、40分ほどでの到着です。
ここはしっかりとした塚が残っていて、遠くからでもすぐに分かりました。
日本橋まであと21里です。
目にも鮮やかな鳥居がありました。
反対側(犬目宿側)から3人組のハイカーが鳥居をくぐっていきました。
また上野原市では、このような史跡そばには、立派な史跡案内図を立ててくれています。
本日最初の宿場、犬目宿です。
きれいな看板がお出迎えしてくれました。
先程の看板を過ぎ、左手に曲がるとこの街並みが目に入りました。
犬目宿の脇本陣跡です。
こちらにも、明治天皇の足跡が残されていました。
立派な石碑と丁寧な案内板がありました。
長野県内、台ヶ原宿周辺、甲州市大和町に匹敵する(を超える)充実具合です。
高台から眺める景色は絶景でした。
正面の看板には「座頭転がし」と書いてあります。
先導者の声を頼りに進んできた盲人の方達が、この屈曲した峠道で、声の方向に進んだところ深い谷に落ちてしまったことから名付けられたようです。
左側の段上には、天王様として石祠が祭られています。
とにもかくにも立派な鳥居です。
談合坂SAが見えました。
江戸時代以前のお話でした。
この一里塚も、それらしい佇まいで迎えてくれました。
恋塚の一里塚から44分。
日本橋まであと20里です。
上野原市に入ってからは、このようにポイント、ポイントには必ず看板があり、地図無しでも歩けます。
県道を離れ旧道散策となります。
今日は何度も、中央自動車道を縫うように歩いています。
この手前でも中央自動車道を跨ぎ、そして現れた丁字路でしたが、ここでも案内看板があり、迷わずにルート選択ができます。
野田尻宿に入りました。
野田尻宿にも丁寧な案内看板と明治天皇の足跡がありました。
明治天皇の碑のあるところが、本陣跡のようです。
武田信玄の時代に築かれた山城の郭や尾根を切断する堀の跡が見つかったり、また甲州道中の跡も残っていたようです。
なお芭蕉の句がありますが、これは芭蕉が立ち寄った際に詠んだ、というわけではないようです。
樹齢300年以上の立派な杉です。
地名の由来となったクヌギは、枯れて現存しないようです。
荻野の一里塚から39分で到着しました。
実際の一里塚はこの地でなく、少し江戸寄りにある切通し辺りに塚があったようです。
日本橋まであと19里です。
この先に鶴川宿があります。
蛇行しながら、坂道を下っていきます。
鶴川宿を撮影しました。
コンパクトですが、重厚な面持ちです。
碑や案内板が本当に充実しています。
上野原の市街地に入りました。
向こうの小学校に見える大きなケヤキは、樹齢800年を誇るそうです。
大門が残っていますが、その他には当時を偲ばせるものはありません。
大椚の一里塚から54分かかって到着しました。
疱瘡神社内に一里塚があるのですが、なんとも微妙な状態です。
確かに、塚として残っているようには思えるのですが…。
武田氏が設置した「甲斐二十四関」の一つであり、江戸時代になると「境川口留番所」と呼ばれたそうです。
もうすぐ、甲斐の国から相模の国に入ります。
境沢(境川)を越え、相模の国に入りました。
相模の国に入って、初めての標柱です。
ここから、再び国道を離れて古道散策となります。
先程の標柱から坂を上ること1分。
合流する道の脇に倒れた標柱がありました。
国道と再合流するポイントに、倒れた標柱がありました。
前年の台風の影響でしょうか?
関野宿の本陣跡に到着です。
相模国から甲斐国に入る直前の宿場ということで、重要な位置づけにあったようですが、今ではその面影はありません。
明治22年、その後二度の大火で焼失してしまったようです。
あずさ8号と思われます。
軽やかに駆け抜けていきました。
榎の大木が塚木であるようです。
現在は国道の方が位置が高く、塚らしさはありませんでしたが、古はどうだったのでしょう。
日本橋まであと17里です。
本陣は明治29年の大火で焼失したとのこと。
明治天皇の足跡が「聖蹟」という表記になりました。
旅籠ふじや跡は現在郷土資料館となっています。
ここでまた国道を離れ、高台に向かって進んでいきます。
椚戸旧道の下諏訪口になります。
ここからは、こまめに標柱が現れます。
椚戸旧道の江戸口となります。
舗装路には出ますが、引き続き心寂しい道を進みます。
ここまでの標柱が古びていたり、また倒れていたりしましたが、ここで急にカラフルなものが出現しました。
次に現れる標柱は…?
この標柱もカラフルでした。
この標柱から先、江戸方面には3本の道が走っていて、どれを進めば…と若干立ち止まりました。
薄いアスファルトで舗装された道を進みます。
荒れ果てた草木に行く先を阻まれ、少し高い位置にあった土道から舗装路がどこにあるか確認しています。
そしてこの先で、本日最大の危機を迎えます。
先の写真から50m程度のところに、与瀬の一里塚。
しかし、この50m程度に10分近くの時間がかかりました。
実は先の写真を撮影の後、高い位置にある土道から舗装路を見つけますが、藪に囲まれており走破するのが難しいと感じたため、土道を少し進み、舗装路が再び現れたところで降りようと画策しました。
高さにして3m程度でしょうか。
草木に足を掛けながら斜面を降りようとしましたが、足を踏み外し、転げ落ちてしまいました。
若干ではありますが、血を見る事態を招いてしまい、回復までの時間がかかった次第。
日本橋まで16里…。
与瀬の一里塚を越えたその先もまた苦難の道でした。
相模湖に注ぐ沢にかかる貝沢橋を渡るのですが、この橋が直径15cmほどの丸太?
丸太の具合を見る限り、最近ただ渡しただけと思われ、構造物ではないです。
もちろんそんな「橋」を渡れるはずもなく、岩から岩へと飛び移り、対岸に渡りました。
それを越えての與瀬神社です。
建物は近代のものと思われますが、築山もある広い敷地に圧倒されました。
相模湖駅を越え、ここで国道を離れます。
ここまで来ると、見覚えのある景色となります。
えんどう坂と階段を上ってきました。
中央自動車道の相模湖東IC目の前です。
中央自動車道をくぐり、国道20号線を横断して進みます。
再度国道に合流すると、そこは小原宿。
神奈川県の指定重要文化財となっているそうです。
神奈川県内では、当時の本陣で唯一現存するものとのことです。
大垂水峠に向かう国道20号線とはここでお別れ。
笹子峠と並ぶ難関、小仏峠越えに挑みます。
台風の爪痕です。
一里塚跡の説明看板も、無残な状態でした。
塚そのものは、上を走る中央自動車道敷設時に切り崩されたそうです。
日本橋まであと15里です。
足元に標柱や馬頭観音がありました。
ここまでは、急坂でありながらも舗装路でしたが、本格的な山道に入ります。
本日すでに30km以上を歩き、またアップダウンのある道のりであったため、結構足腰に来ています。
山道も最後の1kmは休み休み登りました。
後は下るだけです。
明治天皇の移動は乗馬?籠?それとも徒歩?
ここでもお休みをされたとのことです。
ここにきて通行止めですか!
どうする…。
①高尾山方面に進む
②景信山経由で小仏宿に向かう
結果としては②を選択しました。
5月2日の「藤野駅~陣馬山~景信山~高尾山」縦走時にもこの眺望を楽しみましたが、本当に絶景です。
ただし、小仏峠以後は下るだけと思っていたところでの、更なる山登りを強いられ、
脚には痛みを生じるわ、あたまもボーっとしてくるわ、で辛かったです。
甲州道中であれば沢沿いに歩き20分程度の距離だったはずですが、景信山経由により小仏峠から70分かかりました。
※景信山山頂の茶屋で15分程度休憩もしましたが…。
景信山から下山した皆さんは、小仏バス停からバスに乗車されました。
歩いているのは自分ひとり。
峠越えをして最初の宿場は小仏宿ですが、見るべきものがなく通過してきました。
そして、次がここ駒木野宿です。
碑だけが存在し、敷地は公園になっています。
「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まったそうです。
開門時間は午前6時~午後6時。
実際には宿と関所が同じロケーションにあった様子。
駒木野宿内には、現存しませんが一里塚もあったとのことです。
日本橋まで13里です。
この後、高尾駅北口まで歩き、本日の行程を終了しました。
高尾駅到着時に写真を撮り忘れたため、駒木野宿・小仏関所の写真でおしまいです。
ということで1月4日のあるきろくはここまで。
時間は8時間50分、歩数は56,100歩、距離は42.2kmでした。
日本橋までの残りの距離は、頑張れば1日でも歩ける距離となりました。
また、スタート地点まで、ゴール地点からの行き来の時間を短くできます。
現実的にはあと2日、かな。