あるきろく20200126
2020年1月26日 あるきろく 甲州道中をあるく(8日目)
2020年のあるきろく、3日目です。
甲州道中をあるいてきましたが、ついに残り4里弱。
早速ですが、スタートです。
雪が降る、とのことでしたが、しとしとと冷たい雨。
新宿や日本橋の街が目覚める前にゴールすべく、早い時間のスタートです。
ここに至るまでに、甲州道中の北側には寺院と大きな墓地が続きました。
和田堀廟所には樋口一葉の墓があるそうです。
暗い写真で恐縮です。
玉川上水にかかる橋、代田橋の跡です。
四代将軍家綱の命により、玉川兄弟が多摩川の羽村から四谷大木戸まで引いた上水です。
塚の上に生い茂っていた笹(または竹)により、笹塚と呼ばれるようになったようです。
日本橋まであと3里。
幡ヶ谷駅を過ぎ、初台駅に向かっています。
平安時代の永保3年~寛治元年(1083~1087)に東北地方で戦われた後三年の役を終えて上洛の途にあった八幡太郎義家がこの辺りを通り、池で白旗を洗い、そばにあった松の木にかけて乾かした、という伝説があります。これは、源氏伝説の一つであり、実際のできごとであるかは不明ですが、この池が「旗洗池」と呼ばれるようになり、いつしか、「幡ヶ谷」という地名に転じたそうです。
国道20号線は日本橋まであと10kmとなりました。この先はほぼほぼ国道20号線をトレースしますので、甲州道中もあと10kmということになります。
左手には新国立劇場、地下には京王線初台駅があります。
代々木村と角筈村の境界に位置する天満宮です。樹齢300年を超える銀杏がありますが、箒を逆さにしているように見えることから「箒銀杏」と呼ばれています。
新宿駅を越える頃に夜が明けました。
あるきろく20190805で触れていますが、甲府市酒折で離れた青梅街道と5ヶ月半ぶりの再会です。
元和2年(1616年)に大木戸が設置されました。江戸市中においては西口、内藤新宿においては東口に当たります。
また、玉川上水はここまで開渠で流れ、水番所でもあったここからは江戸市中に向けて石樋や木樋などを地下に通し、通水しました。
外苑東通りとの交差点を過ぎた辺りから、この立て看板が目に付くようになりました。
じっくり目を通すと、今日新宿シティハーフマラソンがあり、交通規制がされるとのこと。この辺りは8:25から規制開始のようで、1時間早かったおかげで助かりました。
下に見える総武・中央線は外堀に位置します。
この外堀にかかる橋を渡ると、江戸城防御の城門となる四谷見附があります。
寛永13年(1636年)に長州萩藩主毛利秀就により城門石垣が作られ、寛永16年(1639年)に門が建築されました。高麗門と渡櫓門を互い違いに配置する桝形門でしたが、明治5年(1872年)に渡櫓門は撤廃され、多くの石垣も撤去されてしまいました。
「麹町」町名由来諸説
①町内に「小路」が多かった
②米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があった
③武蔵国府へ向かう「国府路」があった
いずれもそれっぽいですね。
横断歩道の真ん中からの撮影です。
おにぎり(国道看板)が半蔵門に浮いて見えます。
江戸城に危機が迫った際に、甲州道中を利用して、甲府経由で駿府に至るための門。
名前の由来は、服部半蔵の屋敷があったから、とか。
少し見づらいですが、階段を下りたところに井戸枠があります。
旱魃の際にも枯れることのない名水と言われ、多くの通行人が利用したそうです。
江戸時代当初は、熊本藩主加藤清正の屋敷でしたが、寛永9年(1632年)2代目当主忠広の時に没収されました。
その後、彦根藩藩主井伊家がこの土地を手に入れます。幕末の桜田門外の変の時にも、井伊直弼はこの屋敷から桜田門に向かっています。
歴史の教科書に必ず出てくる桜田門外の変。
先ほどの井伊家屋敷から、6分で着きましたが、信号待ちがなければ1~2分で着く距離です。そんなわずかな機会を、水戸浪士は狙っていた、ということになります。
日本橋まであと3kmです。
ここからは、国道1号線とともに進みます。
江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
新幹線とJR線のガードの左側が有楽町。
ガードを越えた先が銀座。
ペコちゃんブランドのビルが目立ちます。
大正時代のキャッチコピーに「今日は帝劇、明日は三越」というのがありました。
今日は帝劇の前を通り、三越の足元にある日本橋を目指しています。
これだけ見通しがよいと、気持ちが良いですね。
ここって、東京マラソンのゴール地点?
橋の向こう側に和田倉門があります。
二万石から三万石の譜代大名が警備を勤めたようです。
東京駅を丸の内側から八重洲側に越えました。
東京駅日本橋口から出てすぐのところに、呉服橋跡があります。
眺める方向(高島屋方面)を真っ直ぐ進むと、京橋、銀座、新橋に至ります。
この交差点を左折すると…。
ついにゴールが目の前に迫りました。
①日本橋の創架:慶長8年(1603年)
②日本橋が幕府直轄の主要五街道の起点として定められる:慶長9年(1604年)
③現在の日本橋の架橋:明治44年(1911年)
日曜日の朝ということもあり、交通量が少なかったため、橋の中央に埋設されている道路元標を撮影することができました。
良い子はマネをしてはいけません!
佐藤栄作元総理大臣の揮毫と、先の解説版に書いてありました。
スタート地点であった下諏訪宿以来、中山道とも再会を果たしたことになります。
1月26日のあるきろくはここまで。
時間は3時間30分強、歩数は22,500歩、距離は15.5kmでした。
下諏訪を出発してから日本橋までの時間トータルは42時間弱。
台風の影響による通行止めや、すでに現存しない道もあり、もちろん100%のトレースはできませんでしたが、ガイド本などを頼りにできる限り忠実にあるいてきました。
とにもかくにも53里24町を完歩しました。
次はどこをあるこうかな…?