あるきろく20190818
2019年8月18日 あるきろく 甲州道中をあるく(4日目)
公共交通機関の計画運休を招いた大きな台風も過ぎ去った、日曜日。
ついに、甲州道中で最大の難関、笹子越えに挑みます。
山道を歩くことを想定して、今回はトレッキングシューズを履いていこう、と玄関を出たところで、何と靴底が剥がれ落ちるアクシデント発生‼︎
いつ買ったかはうろ覚えですが、高校生の頃には履いていたから、30年くらいは経つのかなぁ…。
そんなこんなで、いつものスニーカーでスタートです。
前回のゴール地点、鶴瀬関所跡を出発です。
今回は、難関の笹子越えはしますが予定距離は短いので、スタートも遅めです。
甲州道中から若干離れましたが、今回こそは、史跡を丹念に拾っていこうと寄り道しました。
国道20号線から笹子峠へ向かう県道に入ります。
写真では左が県道です。
甲州道中はこの右側の上り坂を進みます。
甲州市でも、大和町に入って以降、標柱が立派です。
いかにも、な雰囲気の坂道を上っていきます。
日差しはありますが、前回ほどの暑さではありません。
頑張って進みましょう。
巡礼僧が追い剥ぎに遭ったそうです。
それを村人が供養するために、と造ったそうです。
橋桁に手が届くような距離感です。
日本橋もそうですが、橋がない景色を見てみたいものです。
曲がりくねった坂道を右に曲がったところで、この表札に出会いました。
急坂の途中でもあり、まだ宿場の雰囲気はありません。
坂道も緩やかになり、 道中を挟み込むように建物が密集してきました。
駒飼宿の本陣跡に到着です。
下諏訪から数えると、鶴瀬宿の次の宿場です(鶴瀬宿と合宿)。
そしてここにも、明治天皇の足跡がございました。
写真には入れませんでしたが、暑い中草刈りをするおじさんがいらっしゃいました。
「秣負う人を栞の夏野哉」…。
『奥の細道』で詠んだ句のようです。
秣(まぐさ)とは馬草であって、馬の餌だそうです。
「栞(しおり)」は「枝折」とも書くようですが、自分の歩いた跡として枝を折って置いていく、ことからきているようです。つまり、道標ということのようです。
それを踏まえて、この句を詠んでみましょう。
これまでにも悩まされた害獣ネットです。
通電しているかも、とゴム手袋を用意してくるつもりでしたが、持参せず。
恐る恐るゲートに触れてみると…大丈夫でした。
解錠して進むことにします。
ガイド本では「通行不可」とされている、荒れ果てた道です。
この先、倒木もあり、道全体が沢のように水にあふれていたり、で苦労しました。
駒飼の一里塚です。
日本橋から28里との記載がありますが、29番目の一里塚である、という説が有力のようです。
とにもかくにも、これに出会うために、あのゲートを越えて進んできました。
このまま先に、本当の旧道跡を歩いてみたいと思いましたが、右を流れる沢の勢いもすごく、またここに至るまでにもスニーカーで歩くにはギリギリであったことから、泣く泣く断念し、県道に戻って歩くことにします。
昭和47年まではこの道が国道20号線として、甲府盆地と東京方面とを結んでいました。
九十九折りの県道では笹子峠まで6.2km。
後ほど、再び旧道の山道も歩きますが、その場合には何km歩くのかな?
駒飼の一里塚の先を進む旧道と、この桃の木茶屋跡で合流します。
ここに立って旧道方向を見ると、何となく歩けそうな気もするのですが…。
県道から離れ、旧道である山道に入っていきます。
旧道も入口付近は、きれいに整備され、歩きやすい道でした。
歩みを進めるうちに、気が付けば、道は整備されているわけでもなく、木立の間隔と踏み固められた地面を参考に進むようになります。
このように枝分かれする場所では、標識が不可欠です。
幅がありましたので、渡る前には何とも思っていませんでしたが、結構な朽ち具合で冷や汗ものでした。
進むべき道が分からず、そこにあった一等水準点を眺め、気持ちを落ち着けているところです。
何となくながらもこっちだろうか?と考えている方向を写しています。
幅は狭いものの、木の並びと踏み固められた地面を見て、一安心。
一旦、山道から林道に出ます。
入口こそ階段になっていますが、その奥はまた険しそうな山道です。
桃の木茶屋跡から30分で、甘酒茶屋跡に到着です。
これだけの険しい道程では、やはり甘い物、飲み物が必要になりますね。
ガードレールの下に、笹子峠への道標が見えます。
笹子隧道が見えます。
昭和11年に起工し、昭和13年に開通した笹子隧道。
全長239mですので、歩いて通れば3分程度の距離です。
せっかくの機会ではありますが、もちろん今日は通りません。
笹子峠はすぐそこです。
山道に戻ります。
旧道から笹子隧道を見下ろします。
やはり道はあるようで、ないような。
でも、もう少しで峠に到達です。
頑張りましょう。
笹子峠に到着しました。
標高1,096mとのことです。
さっきの一等水準点からでも163m上ったことになります。
来た道を振り返ると、切通しの形の峠道であることがよく分かります。
笹子峠から、崖を転げ落ちるようにしながら、ここに到達しました。
「クマ出没注意必要」とありますが、おかげさまで大丈夫でした。
ちなみに甲州市側には「ハチに注意」の看板が倒れていました。
おにぎりを食べながら、県道を数百m進みました。
この分岐で、汗まみれのTシャツを着替えます。
そしてまた山の中へと入っていきます。
尾根から沢沿いの谷に向かって、木立のトンネルを進みます。
急な下り坂 が続き、ここで2回ほど滑ってしまいました。
トレッキングシューズが必要でした…。
しばらく目印もなく、何となくこっちだろう、で進んでいます。
足元の踏み固め具合だけを頼りに進んだところ、沢と沢の合流地点に到達しました。
どうにもこうにも先に進めない…。
数百m戻ったところ、沢を跨ぐ小橋を発見。
それを渡ると、矢立の杉に辿り着けました。
矢立の杉はあまりにも立派で大きく、フレームには収まりません。
また、歌手の杉良太郎さんが歌われる「矢立の杉」の歌碑が設置されており、
その傍らにはゼンマイ式で歌が流れるスピーカーがありました。
峠を挟み、多くの茶屋があります。
ここにも明治天皇御野立所跡がありました。
また、この前を通る道はいかにも街道然とした、そんな風情を感じました。
いったん県道に出ます。
矢立の杉がこの辺りの大きな観光資源であることがよく分かります。
左手に沢の音を聞きながら、杉林の中を進みます。
やっと山道から抜けることができました。
黒野田宿に向かいます。
臨済宗のお寺さんの門を挟んで、一里塚の標柱が立っています。
標柱には江戸より25里とありますが、27里目という説が有力なようです。
立派な本陣門が現存しています。
その脇には、明治天皇行在所跡の標柱があります。
天保の大飢饉による窮乏を心願したもの、だそうです。
笹子駅辺りにあったであろう阿弥陀街道宿の痕跡は見当たりませんでした。
そこで、笹子駅を通り過ぎ、甲州道中を少し離れ、阿弥陀街道宿の地名の由来となった「阿弥陀堂」の跡を訪問しました。
8月18日のあるきろくはここまで。
時間は約3時間半、歩数は約19,700歩、距離は15km強でした。
最難関の笹子越えを終え、また道中のおよそ半分まで来ました。
日本橋への到達はいつになるでしょうか。
【番外編】
笹子駅といえば、昔はスイッチバックであった、急勾配上にある駅です。