あるきろく20200113
2020年1月13日 あるきろく 甲州道中をあるく(7日目)
2020年のあるきろくは、中8日でさっそく2回目です。
前回終着点の高尾駅での写真を撮り忘れたので、
今回はすこし戻って、最後に写真を撮った駒木野宿&小仏関所からのスタートにします。
夜明け前の駒木野宿&小仏関所跡です。
高尾駅から20分弱歩きましたが、まだ真っ暗で、到着したころにようやく明かりがさしてきました。
高尾駅まで戻ってきました。
町田街道との交差点からしばらく、国道20号線と並行する旧道を進みます。
重厚の面持ちの家が並んでいました。
矢印看板の表裏で、街道の歴史が分かります。
旧甲州道中は慶長九年(1604年)の開通。
現甲州街道は昭和3年、ということなので1928年の開通です。
写真にうまく収められませんでしたが、道を挟むように「武蔵陵墓地参道」標柱もありました。
写真ではうまく表現できないのですが、背後を振り返ると雄大な山並みが見えました。
ちなみに右側の建物は高尾警察署です。
八王子市役所横山出張所の敷地にある、大きな樹木です。
これまでに見てきた一里塚と比較しても、まったくもってそれらしい塚ではありますが、これは一里塚ではありません。現存しませんが、このすぐ東に散田の一里塚が存在したそうです。
「右 高尾山」「左 真覚寺」と刻まれています。
ここはクランクになっていて、らしさ満開の「枡形」跡です。
甲州街道と陣馬街道の追分です。大きなX形の交差点です。
標柱の文字ですが、「右 あんげ道」とありますが、「あんげ」とは???
八王子千人同心は半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐武田氏の家臣・小人頭と配下の小人(同心)にありますが、武田氏が滅びたのち、徳川家康が甲斐国を治めるようになると、甲州口の押さえとして江戸の西を守る役目を与えたようです。
この碑は、追分から陣馬街道に入ってすぐのところに立っています。
碑が立っている以外に宿場の面影はありませんが、マンションや商業ビルの合間に蔵が立っていたりします。
2019年5月26日にもこのアングルで撮影をしました。
桝形の一角にある一里塚です。
看板には日本橋から「12里」とありますが、前後の一里塚での表示などからも11里が正しいと思われます。
あるきろく20190519で浅川をあるきました。
この白く写る道を上流に向かって行きました。
石仏石塔群があります。
日野自動車の工場敷地のフェンスにかかる一里塚解説看板です。
読んでみると、実際の一里塚の位置は西に90mとありましたので、少しだけ八王子方面に戻ってみます。
日野台住宅入口交差点辺りが実際の一里塚の位置でしょうか。
日本橋まで10里。
日野台の一里塚から日野自動車の工場に沿って進み、工場敷地が途切れたところが日野大坂上。
名前の通り、そこから一気に坂を下り、ぶつかった中央本線の向こうにある地蔵だから「坂下地蔵」です。
甲州道中は中央本線に遮られてしまいましたので、日野駅近くまで迂回して線路の反対側にある坂下地蔵に辿り着きました。
日野宿は上宿、中宿、下宿と分かれていて、八王子側に位置するのが上宿だそうです。
年代ごとの甲州街道の変遷が記された案内板が、建物の壁面に張り付いていました。
今回は、旧道にあたる万願寺の一里塚、万願寺の渡船場を訪ねるつもりでいましたが、ガイド本にはその道のりが記されていなかったので、とても助かりました。
この先、しばらく緑色の先を追いかけることにします。
立派な建物が残る日野宿本陣跡です。
現存する建物は嘉永2年の大火によって消失の後、建設されたものですが、当主の佐藤彦五郎はこの大火をきっかけに自衛の必要を痛感し、天然理心流を学び、道場を開設します。
この道場に集ったのが近藤勇、沖田総司らであり、日野出身の土方歳三などを交え、ここから新選組の物語が始まります。
先の看板を頼りに旧甲州道中を進み、多摩都市モノレールの下で万願寺の一里塚に到達です。
日野宿本陣に始まり、日野市内のいたるところで新選組を模した印などが見受けられます。
日本橋まであと9里です。
万願寺渡船場跡から国立市方面を眺めています。
多摩川の渡しは甲州道中開設当時から順に、石田⇒万願寺⇒日野と移ったようです。
万願寺から日野に渡船場が移ったのは貞享元年(1684年)で、それ以後も作業渡しとして利用はされましたが、日野橋が架橋された大正15年(1926年)には廃止となりました。
貞享元年からの甲州道中における多摩川の渡し、日野渡船場です。すぐそばにかかる、モノレールも走る立日橋で多摩川を渡ります。
現在の甲州街道である国道20号線は、この日野橋で多摩川を越えます。立日橋とは数百メートルの距離です。昨年秋の台風に伴う増水により道路が陥没し、日野橋は通行止めになっています。分かりづらいかも知れませんが、よく見ると左から3本目の橋桁の辺り、道路がV字に歪んでいます。
多摩川の土手から新奥多摩街道に向かって下りると、石碑やオブジェ(?)が現れます。
新奥多摩街道を横断し、車通りのほとんどない道を進みます。地図を見ると、新しい幹線道路である新奥多摩街道を半円状に迂回するような感じであり、奥多摩街道と合流した後、日野橋交差点に至ります。
日野橋交差点から国道20号線に入り、数百メートル東に進んだのち、多摩川に向かって右折します。鬱蒼と茂る木々に向かって坂を下ると、そこには橋が架かっています。渡った先にこの石標が立っています。
ここは、万願寺の渡しの対面に位置します。
矢川駅や国立市役所への入口を過ぎ、緩やかな坂を上ると右手に現れるのが谷保天満宮です。
湯島、亀戸と並ぶ関東三天神の一つです。
甲州街道の左手に位置する谷保駅を越えた大学通りに、3年間通った高校があります。
右に曲がりながら坂を下りきると、そこにはガソリンスタンドがあります。
そのガソリンスタンドが、あるきろく20190526のスタート地点です。
右に分岐する多摩ニュータウン通りに入った先、某電機メーカーの工場敷地内に、初期の甲州道中の一里塚、本宿の一里塚があるそうです。
また、甲州道中が我が家に最も接近するのが、この辺りです。
本宿交番前の交差点から東に数百メートル進んだところで、Y字路が現れ、現甲州街道と離れます。旧道に入って程なくして、この立派な門があります。矢島本陣からの移築とのことですが、立派な門構えです。
府中宿に差し掛かりました。
この道の両脇も、徐々に宿場街らしくなってきました。
甲州街道の開通に伴い成り立った「番場宿」に属する村落です。
街道の南側には古刹高安寺があり、町場が街道の北側片側だけにできたことから「片町」となったようです。
幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数百三軒 街道の左右に簷を連ね」とあります。地名の起こりは、馬場の転訛や、番所があったことから、などの説があるそうです。
「現在の名称」での府中街道との交差点を一旦渡り、振り返っての写真では、正面に高札場、右手に問屋場跡があります。
府中高札場は甲州街道、川越街道及び相州街道が交差する(捉える時代によっては、甲州街道と鎌倉街道が交差する、という表現になるらしい…)府中宿の中心を占める場所でした。街道同士が鍵の手に交わっていて、「札の辻」「鍵屋の辻」と呼び親しまれていたそうです。
「札の辻」からすぐのところにある某紳士服専門店の前に立つ碑です。
番場宿の小名として名を残す集落であったようです。
それにしても、府中市に入ってから、立派な案内ばかりで驚く一方、これまでこの辺りを歩いていながらほとんど気にも留めなかった自分に反省です。
「~武蔵国の守り神~御鎮座壱千九百年」大國魂神社です。
成人の日はあまり関係なさそうですが、それでもかなり賑わっている様子でした。
大國魂神社から北へ延びるけやき並木の両側は、かつて馬場であり、馬場大門の名称もこれに由来しているとのこと。馬場は、徳川家康が大國魂神社に寄進したものと伝えられています。
丁字路に位置する商業ビルでトイレに行き、パンを購入し、外に出ると、そこにはこの看板がありました。
けやき並木の起源は、江戸時代よりはるか昔にあることを知ることができる看板です。
宿場のような名称ですが、六所宮(大國魂神社)の社に属する、農業を中心とする村落です。地名の起こりは、聖武天皇の時代に創立された国府八幡宮が鎮座していることによります。
京王線の東府中駅を過ぎたところからしばらくは、現「旧甲州街道」と江戸初期貞享年間以前の甲州古道(現「品川街道」)とを行ったり来たりして進みます。
常久の一里塚は、甲州古道沿いに残されています。
日本橋まであと7里です。
旧甲州街道に戻り、交差点を挟む形で染谷不動尊と観世音菩薩像があります。
染谷不動尊境内に、上染谷集落の説明碑がありました。
再び甲州古道に戻ります。道標には「右 品川 左 府中」との記載です。
またまた旧甲州街道に戻り、下染谷集落の碑を訪れました。
「染谷」の地名の起こりは、調布(てづくりぬの)を染めた所であった、また鎌倉時代に染殿があった、などと言われており、布を染めることに関係する地名のようです。
もともとは一つの集落あったものが、いつの頃からか「上染谷」「下染谷」と別れたようです。
仏堂の中には、石造瑠璃光薬師如来立像が安置されています。
この石像は、仙台藩士にして医師でもあった松前意仙により貞享年間に造立されたものです。松前意仙はこの像を完成させると、自ら墓穴を掘り、入定して成仏しました。その後築かれた塚が、行人塚として残されています。
府中市から調布市に入りました。
少しずつ都心に近づくなか、すごく立派で大きなお宅がありました。
塚木は榎であったようです。
隣接する駐車場の名前は、ここからとったのでしょうね。
日本橋まであと6里。
国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿の合宿により布田五ヶ宿と呼ばれる宿場です。本陣、脇本陣のない旅籠9軒の小宿であり、問屋場業務も各宿が月のうち数日ずつ交代で務めました。
祠に安置されている青面金剛像は寛政十年(1798年)の建立とのことです。
国道20号線に合流しました。
調布警察署を過ぎ、つつじが丘に向けて緩やかに上る途中に、地蔵尊が現れました。
写真には収めていませんが、この裏手は石材屋さんでした。この地蔵尊の管理はさすがにしていないか…。
更に坂を上った先にある地蔵です。
金子村に嫁いできた妙円という女性が、不幸にも失明します。
その後出家をし、村人のために念仏を唱え続けた妙円は文化二年(1805年)、浄財によりこの地に地蔵菩薩を建立します。
寛延元年(1748年)に京都の伏見稲荷に勧請し築かれた稲荷大明神とともに植えられたといわれるイチョウです。樹齢にして270年くらいでしょうか。この看板のある正面からは、竹に遮られてよく見えないため、少し移動した後全体が入る角度で撮影しました。
イチョウを過ぎたのち、一旦国道20号線から離れて旧道を進みます。国道20号線が緩やかに上っていく一方、旧道はしばらく平坦であったのち突然の急坂を駆け上がります。急坂を上り切り国道20号線と合流するところに立つ標です。
危うく気付かずに通り過ぎるところでした。
某CVSの建物に張り付くように設置されていました。
日本橋まであと5里。
徳川家所縁の尼寺跡です。左側に石塔が並んでいますが、これらの中に宝永四年(1707年)に建立された宝篋陀羅尼経之塔があります。
明治3年に内藤新宿を起点とした甲州街道に建立された新一里塚で、芝生に覆われた3メートル程度の塚の上にこの碑が建てられたそうです。碑には、内藤新宿から3里であることが記されています。
心に残る表現です。
烏山用水に架橋されていた橋のようです。
欄干を残していますが、暗渠となった用水路もそのままの形であり、かえって奇妙な光景でありました。
井の頭公園に向かう道との分岐であったようです。「是ヨリ一里半」と刻まれています。
ここで国道20号線に合流し、さらに環状8号線の高架をくぐります。
正面のビルの辺りに、上高井戸宿の本陣があったようですが、全くその痕跡はありません。
中央自動車道の下に、一里塚があったようです。
日本橋まであと4里。
中央自動車道の向こう、茶色のビル、ベージュ色のビルの辺りに本陣があったようですが、上高井戸宿同様、まったくもってその痕跡はありません。
1月13日のあるきろくは ここまで。
時間は8時間15分、歩数は56,000歩、距離は42kmでした。
見慣れた景色ではありましたが、それでもまだまだ知らないものが沢山あって、新鮮な気持ちで歩くことができました。
さて次回はついに日本橋まで到達します。
残すところあと4里弱です。