あるきろく20200924
2020年9月24日 あるきろく 都道をあるく(第11回)
今回は、初めて2日続けてのあるきろくです。
あるきやすい気候になったこともあり、昨日の疲労感も残っておらず、また今回の都道12号線は距離がそれほど長くないことから、いざ出撃です。
今回の都道12号線は、本線とバイパス支線それぞれの起点が隣接しており、その両方を確認してスタートしようと考えました。
先に、バイパス支線の起点を確認するためにこの交差点に来ましたが、起点を示すものはありませんでした。
実地調査と帰宅してから確認したことで分かったこと。
・都道12号線の道路名称である「武蔵境通り」のバイパス支線は、
この交差点を起点としてるが、国道20号線との交点である
下石原交差点までは、都道19号線であること
・都道19号線は主として「鶴川街道」を名乗るが、下石原1丁目交差点から
下石原交差点までの間は「武蔵境通り」となること
写真に写る矢印看板を見ても、「19 武蔵境通り」となっています。
旧甲州街道である都道119号線を東へ、都道12号線本線の起点である小島町1丁目交差点に向かっています。
頭上の標識からも、次の交差点から都道12号線が武蔵境に向かう様子が分かります。
都道12号線本線の起点となる小島町1丁目交差点です。
何か起点を示すものは?と探しましたが見当たりませんでした。
そんなこんなですが、都道12号線のあるきろくをスタートします。
「主要地方道」というには寂しい雰囲気の道路、そして起点ポストなどもない中での不安なスタートでしたが、その不安を吹き飛ばしてくれる、ありがたい距離ポストです。
甲州街道である国道20号線との交点である小島町交差点です。
その手前には、0.2kmポストを外した跡がありました。
土台も少し欠けています。
この先一旦、バイパス支線と国道20号線の交点である下石原交差点に向かいます。
バイパス支線と国道20号線の交点です。
①「武蔵境通り」の矢印看板に記載の番号が左右で「12」「19」と異なりました
②「主19」「終点」の記載がある距離ポストがありました
③「主12-1」の起点を表す距離ポストがありました
実際に現場に行かないと分からないことはたくさんあるものです。
では、本線に戻ります。
都道12号線は、国道20号線を越えると電気通信大学の敷地に挟まれながら北へ向かいます。
電柱の足元に、距離ポストの跡がありました。
0.4kmポストは埋め込みタイプ。
0.5kmは取り外されていました。
0.6~0.8kmは見当たりませんでした。
0.9kmはカトリック教会のレンガ壁の前にありました。
そして1kmポストは、中央高速自動車道の下で見つけました。
たぶん、これだと思います…たぶん。
ここでバイパス支線と合流します。
合流後の左車線側からバイパス支線を振り返りました。
幅も広く、見通しもよい、走りやすそうな道路でした。
野川を渡ります。
昨日の都道11号線でも、何度か渡りました。
なお、橋の上に1.3kmポストが埋め込まれていました。
深大寺への入口、右折する道は深大寺通りです。
今回あるいてみて思いました。
深大寺に行く、となると、当たり前のように調布駅からバスで、と思っていましたが、たいした距離ではないな、と。
調布駅からまっすぐ歩いてくれば、30分もかからずに着く距離ですね。
30分を長いととるか、短いととるかは人それぞれでしょうが。
2kmポストがありました。
神代植物公園も駅から遠いイメージがあって、頻繁に行こう、という感じではありませんでした。
実際に、今まで1回か2回、バラのきれいな季節に来た、くらいです。
駅から程よい距離の散歩をしながら、と考えれば全然遠くはないし、今後はたびたび訪れよう…かな?
高校受験を控えた中学生の頃(三十数年前)、当時は学区制度があった都立高校ですが、当然ながら自分の学区のそれぞれの高校がどこにあるかは興味のあるところです。
自分の該当する第10学区には十数校あったと思いますが、学区内で最もどこにあるかイメージの湧かない学校でした。
深大寺もそうですが、この辺りにおける位置や距離の感覚がなかったんだろうな、と思います。
野崎八幡前交差点では、都道14号線「東八道路」と交差します。
都道13号線は、あるきろく20200823にも記した通り、現在は欠番となっていますので、次回にあるくのはこの道路となります。
都道134号線「連雀通り」との交点、塚交差点です。
頭上の標識では、都道12号線は直進となっていますが、「新武蔵境通り」を名乗るこちらの通りはバイパス支線とのことです。
本線はここで左折し、都道134号線に少しの間相乗りして行きます。
頭上の標識にある通り、この交差点で改めて「12 武蔵境通り」の表示が表れます。
右折して、武蔵境駅方面に向かいます。
久し振りに訪れた、武蔵野赤十字病院…。
もう7年前になるでしょうか、血尿が出て、街中のクリニックで紹介状を書いてもらい、ここに通院することになりました。
潜血ではなく、トマトジュースのような血尿が出たので、これは人生終わった!と思ったものです。
結果としては大病ではありませんでしたが、出なくなるまで5年くらいかかり、その結果、一時期は重度の貧血になり日常生活にも支障が出てしまいました。
今では血も出なくなり、安穏としておりますが、この病院でおこなった膀胱内視鏡検査の辛い思い出が残っています。
武蔵境駅のすぐ東側で、中央線をくぐります。
中央線をくぐってから、迷いに迷った武蔵境駅周辺です。
何故迷ったかというと、普通の感覚ならば中央線をくぐった後は直進と思うはずです。
でも、下調べによると、線路に沿って駅前ロータリーに向かっている都道12号線。
それはそれで進みましたが、さて駅前に着いた後、北に向かうのにどの道を入っていくのか、またこれで悩みました。
地図で見ると、某ファーストフードチェーン「M」の脇を北上するように見えましたので、その道をあるいていきましたが、正面に立ちはだかる建物。
地図では、建物に遮られることはありません。
一旦、駅前まで戻ります。
都道検索システムを目いっぱい縮尺を大きくすると、「M」脇の道ではなく、一本隣の大手コンビニチェーン「F」の脇の道であることが判明。
それが、この「すきっぷ通り」です。奥には、その向こうに続いていく道も見えます。
200mくらいの商店街を抜けて、「普通の」道路に戻ります。
なかなか難易度の高い武蔵境駅近辺でした。
玉川上水を渡る桜橋にある碑です。
文学作品には疎いものですから詳しく存じ上げませんが、碑に刻まれている文章は「武蔵野」第六章の書き出しとのこと。
「今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある」
三崎町とは、現在の神田三崎町でしょうか。
水道橋駅から武蔵境駅まで電車に乗って、そこからここまであるいた、ということですね。
都道7号線「井の頭通り」と交差します。
「井の頭通り」ですので、都道7号線の支線となります。
双方の矢印看板が立つその足元に、距離ポストが2つ並んでいます。
じっくりと見てみることにします。
7.1kmポストということは、ここまであるいてきた都道12号線の距離ポストですね。
井の頭通りとしての都道7号線支線は、環八通り交点を起点としています。
そこからの距離では、約7kmということで、先程「7.1km」は都道12号線のものだといったそばから怪しくなってきました。
ただし、都道7号線本線である五日市街道の10km地点は、この交差点すぐ近くの武蔵野大学バス停そばにありました。
ということはやはりこの10.4kmも、あるきろく20200723のスタート地点からで、どこかのルート、例えば、関前三丁目交差点から、こちらも都道7号線支線にあたる「新武蔵境通り」(ついさっきまで、都道12号線支線の名称でしたが。)を伝い、関前一丁目交差点で井の頭通りに入り、ここに至る距離、なのでしょうか。距離感としてはしっくりきますが、確証が持てません。
いつの日か、都道7号線については、この辺りの支線巡りをして、丹念に距離ポストを追いかける必要がありそうです。
都道7号線の本線、五日市街道と交差します。
あるきろく20200723には、この交差点の写真をアップしていませんでしたが、撮影履歴に1枚だけ写真が残っていましたので、下に掲載します。
撮影の向きも異なるので、定点観察とはいえませんが…。
この日は途中大雨になりました。
柳橋交差点から先、30kmほどあるきました。
都道12号線は左へ参ります。
8.3kmから100m間隔でしっかりと距離ポストは設置されていたものの、何故にまぁこんなにバラバラか?
同じ種類でそろえた方が、何かと良いかと思うのですが。
「あるきろく 都道をあるく」を始めてから、何度も訪れる田無駅。
今回もまた後程、お世話になります。
都道5号線青梅街道と交差します。
あるきろく20200321で、この道を青梅まであるいています。
終点を目前に控え、丹念に距離ポストを拾うことにします。
終点を示す表示は何もありませんが、矢印看板は片矢印であり、おそらくは終点ではないか、と思われます。
これまで何度か出てきましたが「新武蔵境通り」も並行して北上し、田無町三丁目交差点で都道4号線にぶつかりますが、その最後の数百mが、また都道12号線支線となっています。
都道4号線を東に向かい、こちらに終点を示すものがないかと捜索しましたが、矢印看板すらない状況であったため、写真を撮らずに退散してしまいました。
今更ですが、写真だけでも取っておけばよかったと…。
あるきろく20200315では気付きませんでした。
新宿三丁目交差点から16km地点です。
あるきろく20200315、あるきろく20200321でこの交差点には来ております。
都道4号線と都道5号線が分岐し、都道4号線はここから名称を「所沢街道」と変え、都道5号線は都道4号線から「青梅街道」の名前を引き継ぎリスタートします。
さて、今では当たり前のように目に入る都道5号線の起点ポストですが、当時はどのような扱いであったか、両方の記事を振り返ってみます。
青梅街道と所沢街道それぞれの矢印看板をできるだけ大きく撮ろうとしています。
よって、グラウンドレベルには気持ちが向いていません。
1枚目の写真は、あるきろく20200315と同じアングルを意識したようで、やはりグラウンドレベルは無視です。
2枚目の写真は、二股に分かれ行く街道の様子を収めようと、だいぶ引き気味のアングルでの撮影となっています。
その結果、意識はしていませんでしたが、都道5号線の起点ポストが写りこんでいました。
と、過去の写真も振り返ったところで、今回のあるきろくもここまで。
スマートウォッチの計測によると、田無町一丁目交差点までを含んでですが、
時間:2時間半弱
歩数:15,000歩
距離:11km弱
でした。
次は、今回のあるきろくにも登場した都道14号線をあるきます。
山手通りの清水橋交差点を起点に、国立インター入口交差点まであるきます。
ただ、終点近辺は、ずっと昔から工事中でなかなか完成しない様子です。
普段は車で表面をなぞっているだけなので、この未成区間についても、実際の工事の進捗度合いを見たりしながら、あるきたいと思います。
再三言いますが、都道13号線は欠番です。
あるきろく20200923
2020年9月23日 あるきろく 都道をあるく(第10回)
気が付くとだいぶ涼しくなっていました。
むしろ朝晩は寒いくらいです…。
さて今回は都道11号線。
大田区蒲田から、調布市までをあるきます。
京浜急行電鉄の京急蒲田駅から2~3分あるいた交差点、国道15号線から分岐する東蒲田二丁目交差点が、今回のスタートです。
パラパラと雨粒が落ちてくる中、多摩堤通りをあるいていきます。
道なりに真っすぐ行くと、JR蒲田駅にぶつかります。
都道11号線は、この交差点を右折し、そして10mと行かぬうちに左折して、JR線の下をくぐっていきます。
JR線を蒲田駅のすぐ北側でくぐります。
くぐり終えて、左側に目をやると、大宮行の京浜東北線が出発を待っていました。
蒲田駅付近の賑わいの余韻が冷めやらぬうちに、駅が現れました。
蒲田と五反田を結ぶ東急池上線の蓮沼駅です。
環八通り(都道311号線)と交差します。
今回は、環七通りの外側をスタートし、都道9号線と同様に、南北方向の路線となるため、あるきろく恒例の「環七→環八 タイムトライアル」はありません。
環八通りを渡ると一方通行になりました。
そしてすぐに踏切が現れます。
蒲田駅と多摩川(旧称・多摩川園)駅を結ぶ東急多摩川線です。
「多摩川」を名乗る駅名は、小田急線の和泉多摩川駅、京王相模原線の京王多摩川駅がありますが、東急電鉄は社名を冠として付けず、です。
「東急」と付けていただいた方が、どこにあるかのイメージがつけやすいのですが。
立て続けに大きな幹線道路と交差します。
でも、なぜ国道1号線なのに第二京浜なんだろう?
そこで、「第一京浜:国道15号線」「第二京浜:国道1号線」について、調べてみました。
なるほど…ね。
都道11号線は、この交差点を右折します。
大きな交差点ではありませんが、ここを起点とする都道111号線が多摩川方面へと伸びています。都道111号線は、多摩川を越えて神奈川県に入ったのちも、県道111号線として横浜市神奈川区まで進んでいきます。
下丸子交差点がまだ見えるところに、4kmポストがありました。
平坦で、整備された歩道をあるいていますので、そんなに意識はしていませんでしたが、普段より速いスピードであるいています。
この辺りでは、都道11号線はアルファベットの「C」のような形をしていて、その結果、東急多摩川線と再び交わります。
環八通りとも再び出会いました。
ここで都道11号線は左折をし、ここから100mほどですが、環八通りとの重用区間になります。
環八通りとの重用区間もすぐに終了し、都道11号線はこの交差点を左折します。
すこしややこしいのですが、ここまでは「都道11号線」=「多摩堤通り」でしたが、この辺りでは、若干様子が異なります。
多摩堤通りは、ひとつ前の写真にある、千鳥三丁目交差点を左折、ではなく、その一本手前の道に入っていきます。
地図で見ると、「アスク下丸子保育園」と書いてある交差点を左折し、駐車場マークを通り、ファミリーマートの裏で、環八通りと別れた都道11号線と再合流します。
先人達のHP等を見ても理解できませんでしたが、実踏により確認し、理解できました。
では何故、この道を都道11号線としなかったのか、については、東京都の建設事務所辺りで聞かないと分からないんだろうな…。そもそも、教えてくれるのだろうか?
やはりこの1kmは時間がかかってしまいました。
千鳥三丁目交差点近辺でグルグル行ったり来たりしましたので。
さて5kmポストです。
狭いながらも、分離歩道があるのに、埋め込み式でした。
折角なので新幹線の姿を収めたいと思い、数分待ちました。
が、なかなか来ないので、致し方なくあるき始めると、ガードの真下にいるときに、新幹線が走り抜けていく音が聞こえました。
人生なんてそんなものです…。
「あるきろく20200215」以来の丸子橋です。
同じアングルで撮ってみました。
ここが有名な多摩川グラウンドなんですね。
思っていた以上に、何もないので驚きました。
そして、すぐそばに多摩川左岸の河口からの距離ポスト、14km地点です。
「東京都市大南入口」というバス停近くに9kmポストがありました。
たまたまバス停そば、ということで撮影できましたが、丸子橋を過ぎてからというもの、車道と分離した歩道ではなく、川原から車道にはみ出る草を時にかき分けながら、白線の上をあるく状態が続きました。だいぶ歩くペースも落ちています。
車通りの少ないタイミングで撮影です。
こんな感じの白線歩道をあるき続けています。
正面に二子玉川のビル群が見えてきましたが、ここで環境が変わるとよいのですが…。
今回の行程を下調べしているときに、謎に感じたポイントに到着です。
都道検索システム、昭文社の県別マップル東京都道路地図などでルートや目印などをあらかじめ確認するのですが、二子玉川駅の手前の数百mだけ、主要地方道の色ではなくなるのです。何で途切れているのか?と不思議に思いつつ、今日を迎えました。
県別マップル東京都道路地図でも、2015年版では途切れていますが、2012年版はちゃんとつながっているのです。
で、実際に現地を訪ねてみて分かったこと。
この区間は世田谷区が管理している(設備に世田谷区の区章がついている)こと。
何故なのか?については、傍らの公園に都市道路計画事業の公告看板が立っていたのですが、読んでも何のことだか分からず、これが関係しているのか分からず、でした。
まず、初めてみる漢字で読めませんでした。
「りっこう(りくこう)」というそうです。
で、まず思ったのは、これって土手?堤防だよな?ということ。
向こうにも建物はあるけど、見た目からしてこの向こうに川が流れていても不思議ではない雰囲気です。
そこに、この陸閘です。
国土交通省関東地方整備局荒川上流河川事務所のHPに陸閘の説明を見つけました。
見出しには「堤防の切れ目 陸閘 ~川と人とをつなぐ施設~」とあり、概略説明として「砂利採取などの利用が盛んだったことから、人や車が堤防を乗り越えることなく河川敷まで行き来できるよう堤防に通路と『門』が整備されました。」とあります。
普段はこのように通り道になっていますが、洪水の危険が生じたときには、ここを塞いで堤防の役目を果たすそうです。
勉強になりました。
国道246号線「玉川通り」と交差します。
矢印看板には、東京都のステッカーが輝いています。
ここは再び都の管理に戻ったようです。
さて、二子玉川駅を越えてもなお、堤防の向こう側に建物が並ぶ構図が続きます。
川が見えない位置にある距離ポスト。
やはり異様です。
堤防より川側に立つ建物は、保険の水災保障って受けられるのでしょうか?
頭上には東名高速道路が走り、足元には野川が流れています。
たまたま、埋め込み距離ポストもあったので、同じフレームに収めました。
起点から14.2kmということです。
都道3号線との合流です。
「あるきろく20200308」をご覧いただいていれば、この後に起こることはお分かりでいらっしゃいますね。
都道11号線では初めてのヘキサ標識であり、かつ都道3号線とのコラボレーションです。
都道3号線は、東京都内においてヘキサ標識がお祭り状態で立っていました。
このころはヘキサ標識ばかりに目を奪われ、当時気が付かなかったものもありますが…。
「あるきろく20200308」の時には全く気にも留めていませんでしたし、見たんだろうけど、記憶の片隅にもない。
とりあえず、三軒茶屋から7kmです。
今なら、こんなところに隠れていたって見つけ出せます。
でも前回あるいたときには、露出していても、気付かなかったのです。
意識して行動するか、無意識に行動するかでは、やっぱり違うものです。
都道3号線とお別れの時が来ました。
都道11号線はこの交差点を左に曲がり、再び北上していきます。
都道114号線「松原通り」と交差します。
都道114号線は、吉祥寺駅の北側(八幡宮交差点)から和泉多摩川駅近く(狛江交差点)までの一般都道です。
バスの営業所って、何かワクワクします。
この路線図を見るだけで、3分くらいあっという間に時間が過ぎてしまいました。
実際に乗るわけではないですが、ここでこの系統に乗ったら、こういうルートで終点まで行くのね、とか。
妄想族にはたまらない遊びができる、いいツールです。
狛江三叉路を左折してからでは初めての距離ポストだと思います。
東京慈恵会医科大学附属第三病院を背にしての撮影です。
バス停には、多くの患者さん、お見舞いの方がいらっしゃるので、病院を撮影するには勇気がいりました(ので、撮影していません)。
都道11号線は旧甲州街道に合流し、甲州街道(国道20号線)との交点を終点とする、とされています。
その旧甲州街道にもうすぐ到達します。
1枚目は現在の国領駅舎。
線路は2012年8月に地下に潜りました。
2枚目は、調布駅方面の線路跡地。
線路跡地に新しいビルなどが建って、昔とは違う街並みになった調布駅と比べ、持て余している感満載の光景です。
旧甲州街道と合流します。
距離ポストは「19.85km」とまさかの小数点以下2ケタ表示。
なんか終点っぽい雰囲気も出ているんだけど、終点とは書いていない。
甲州街道(国道20号線)との交点である旧甲州街道入口交差点を目指します。
旧甲州街道である都道119号線は、この交差点で甲州街道である国道20号線と分岐し、起点としています。
国道20号線とほどほどの距離感を保ちつつ西へ進み、再び行動20号線に合流します。
さて、都道11号線の終点を示すものは見当たりませんでした。
残念!
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測によると、
時間:約4時間半
歩数:3万歩弱
距離:21km強
でした。
次は、都道12号線をあるきます。
これまでにも、9号線、そして今回の11号線と南北方向に走る路線もありましたが、これら2路線は、多摩川の流れとともに、厳密には南東から北西方向へ、というのが正解の路線でした。
ですが、12号線は調布市小島町から西東京市田無町に至る「ザ・垂直」路線です。
あるきろく20200830
2020年8月30日 あるきろく 都道をあるく(第9回)
もう8月も終わろうとしていますが、まだまだ猛暑日になる日が続きます。
こんな暑い日にあるくと、結構ダメージを受けるものです。
しかしながら、今回の都道10号線が比較的短距離であることからも、暑さはどこかに置いておいて、いざ決行です。
都道10号線は、ここ日本橋交差点を起点とし、千葉県浦安駅前が終点です。
この地図は、東京都の都道検索システムの画面ですが、緑色が都道を、オレンジ色が国道を示しています。
日本橋交差点は、「あるきろく20200126 甲州道中をあるく(8日目)」で通過して以来です。
都道10号線の起点ポストはどこか?と、交差点をあっちに渡り、こっちに戻り、で歩道の縁をさがしました。
すると、国道1号線の距離ポストが、交差点の東京駅寄りにありました。
都道10号線の起点ポストは見当たりませんでした。
昭和通りである都道316号線と交差します。
この地下では、東京メトロ東西線と都営地下鉄浅草線が交差しています。
新大橋通りである都道50号線と交差します。
都道50号線も都道10号線と同じく、千葉県(市川市)を目指して伸びる道です。
この地下では、東京メトロ東西線と東京メトロ日比谷線が交差しています。
日本橋川から分かれる亀島川に架かる橋です。
橋の名称は、江戸時代初期にあった霊岸島、霊岸寺が由来とのこと。
葦の茂る低湿地を埋め立てて、現在の中央区新川1丁目、2丁目辺りに島ができました。
そこに建てられた寺が霊岸寺であり、島の名称も霊岸島となったそうです。
この霊岸寺は、明暦の大火の後に深川に移転しますが、今もなお清澄白河駅のすぐそば、深川江戸資料館と同じ区画に「霊巌寺」として現存します。
なお、橋の北側の眺めは、ご覧の通り水門のみです。この向こうに日本橋川が流れているようです。
日曜日の朝なので車通りは少ないですが、普段は相当多くの車が通ると思われます。
距離ポストの汚れ方が凄かったです。
最初の1kmは、20分弱とだいぶスローペースで入りました。
隅田川に架かる国の重要文化財でもある永代橋は、古くは江戸時代、元禄11年(1698年)に架橋され、赤穂浪士が討ち入りの後に渡ったとも言われています。
1807年には富岡八幡宮の例祭に訪れた参拝客の重みに耐えられず落橋、1923年の関東大震災では焼け落ちた、という歴史の後、現在の橋は1926年に震災復興事業第一号として架橋されました。
北の方角には東京スカイツリーが、南の方角には湾岸のタワマンが聳えているのがよく見えます。
大島川西支川に架かる橋です。
こちらも江戸時代、文久2年(1862年)の尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図には記されており、現在の橋は昭和4年に架けられ、昭和41年の拡幅工事を経て今に至るようです。
東詰には、次の一万円札の顔となる、明治から大正にかけて活躍した実業家である渋沢栄一の居宅跡がありました。
清澄通りである都道463号線と交差します。
またこの地下では、東京メトロ東西線と都営地下鉄大江戸線も交差します。
門前仲町と言えば富岡八幡宮です。
江戸最大の八幡宮で、江戸時代初期の寛永4年(1627年)に創建されたとされます。
当時のこの辺りは、永代島と呼ばれる低湿地であったようですが、砂州を埋め立てることにより社有地を広げ、また後に整えられた庭園は庶民からも人気の名所であったようです。
また、現在も毎年8月に行われる深川八幡祭りは江戸三大祭りの一つに挙げられます。
アーケード街には、富岡八幡宮を紹介する江東区の看板があり、見えてきた鳥居はとても立派なものです。
平久川に架かる橋です。
この橋も、尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図に記されていたそうです。現在の橋は、平成5年架橋とのことです。
川のないところに橋が現れました。
下に見えるのは自転車置き場です。
何だろう?と思っていたら、路傍に解説板がありました。
平成14年に撤去した、とありますが、撤去とともに川を埋め立てた(もしくは暗渠化)ということなのでしょうか…。
三ッ目通りである都道319号線と交差します。
一般的には呼ぶことはありませんが「東京都市計画道路幹線街路環状第3号線」、つまり「環状3号線」として整備されている道路です。
「環7」「環8」はそのままに呼ばれているのに、どうしてこちらはそのようにならなかったのでしょうか?
大横川に架かる橋です。
最近の某深夜番組で、満潮になったら、水が引くまで通ることができない低い橋をくぐる、すなわち「リンボー・クルージング」と題してとして紹介され、実際に某タレントさん達がこの橋の下をくぐっていったようです。
四ツ目通りである都道465号線の起点となる東陽町駅前交差点です。
起点ポストを発見しましたが、「特例都道」ということで「特」の文字が刻まれています。
「特例都道」とは何か?と調べましたが、「都の特別区内で、道路法第7条第1項の規定によらず、道路法第89条によって区間を定めた道路」ということです。
何のことだか全くわかりません…。
東陽町を過ぎ、数分あるくと5kmポストがありました。
今回は10km程度の距離と見込んでいますので、大体半分まで来たかなぁ、という感じです。
この5kmポストを越えてすぐ、架線のない単線の線路を踏切で渡ります。
路線の戸籍としては、JR総武本線であり、その貨物路線とのことです。
小岩から越中島貨物駅へ至ることから、越中島支線と呼ばれているようです。
越中島支線の踏切を越えて、ものの数秒で、日曹橋交差点で明治通りにぶつかります。
日曹橋という名称ですが、日曹橋そのものは昭和58年に撤去され、現在では橋は存在しません。
日曹橋は、この交差点のすぐ南側で洲崎川にかかっていた、ということです。
また、「日曹」という名称についても、その昔日本曹達という会社の工場がこの地にあり、それが由来となっているようです。
日曹橋交差点では、そのまま真っ直ぐ都道10号線および永代通りの名称が、そのまま東に向かって伸びています。しかし、最近までこの日曹橋交差点は丁字路だったようです。そして都道10号線も、明治通りである都道306号線とともに北上し、荒川に向かっていたようです。
ということで、あるきろくはここで左折、明治通りに入り北上します。
明治通りの名称を借りて北上した都道10号線は、この南砂四丁目交差点でも、右折して葛西橋に向かう葛西橋通りと、もう少し明治通りで北上し、もう一つ先の交差点から旧葛西橋に向かう清州橋通りとに分かれます。
今日は、ここで葛西橋通りに入り、葛西橋を目指します。
丸八通りである都道476号線と交差します。
平成26年まで、丸八通りは北から走ってきて、この交差点を終点としていたようですが、現在は南へ延伸され、延長された永代通り(都道10号線支線)と南砂町駅前交差点で合流して終点となっているそうです。
荒川を渡る葛西橋の西詰に到着しました。
現在の葛西橋は1963年に完成しましたが、それまではここから300mほど上流に(旧)葛西橋が架かっていました。
南砂四丁目交差点から明治通りとして北進した都道10号線の支線は、境川交差点からは清州橋通りとなって(旧)葛西橋まで伸びています。
一旦、(旧)葛西橋に向かって都道10号線の本線をはずれます。
葛西橋西詰から神明通りを通り、旧葛西橋交差点まで来ました。
写真では、西方から清州橋通りをやってきた都営バスが、神明通りに入っていくところを写しています。
1972年までは、都電が清州橋通りを、この旧葛西橋交差点まで来ていたそうです。
メンズショップ マツザカヤの右側にゆるく曲がる道を進むと、(旧)葛西橋に到達します。
今回一番の痛恨のミスを犯しました…。
ここ東砂六丁目交差点に到着し、都道10号線「支線」の終点ポストがないか、交差点をぐるぐると探しました。でも、ありませんでした。
もちろん、すべての終点にポストがあるわけでもありませんし、ここもそんなもんだろう、と交差点を右折し、葛西橋に向けて歩みを進めました。
帰宅する電車の中で、都道検索システムでルートをおさらいしたところ、なんと!交差点の先堤防まで緑色に塗られているではありませんか…。
もしかしたら、堤防の辺りに終点ポストが立っているのかもしれない、と思うと、悔しくて悔しくて「夜も眠れません(←ウソ)」。
葛西橋西詰交差点に戻ってきました。
頭上は葛西橋の導入部分です。
導入部分は自動車専用道路で、歩行者は堤防沿いの階段を上って合流します。
この導入部分の下に、バス停がありました。
橋脚と橋脚の間をうまく使った、バス停&転回場所でした。
階段を上り、葛西橋を渡り始めます。
1963年の架橋は先ほど記しましたが、全長が727.4mの鋼カンチレバー突桁式吊補剛桁橋、とのことです。読んでも、まったくどんな種類の橋なのか分かりませんが…。
727.4mのうち、荒川を渡る部分が565.2m、中川を渡る部分が162.2mとのことです。
清州橋通りの延長線上に存在した(旧)葛西橋は、1928年に架橋された木橋脚の橋でした。路線バスも通っていましたが、1950年には老朽化のため崩落事故も発生したそうです。復旧の後は、車の通行は禁止され、仮設の人道橋として使用されてきたそうです。
そして、現在の葛西橋の架橋とともに、その役目を終えたとのことです。
1960年ごろのものと思われる葛西橋の航空写真です。
新旧の葛西橋がともに写っています。
まだ、現在の葛西橋は架橋中と思われます。
首都高速中央環状線の足元です。
荒川と中川を並行させながらも合流させないのは、やはり治水上こちらが合理的なのでしょうか。地図だけを眺めていると、とても不思議な感じがします。
さて、この中提が憩いの場的な場所になっていることは、今回初めて知りました。
葛西橋を渡り江戸川区に突入しました。
橋を越え、最初の信号・横断歩道のところに8.2kmの距離ポストがありました。
船堀街道である、都道308号線と交差します。
船堀街道は、荒川・中川に並行して南北に京葉道路から湾岸道路までを走る路線です。
そろそろ終点を意識して、距離ポストを改めて注視していきます。
8.2kmからの800mで12分かかりました。ペースは少し遅めですね。
環七通りである都道318号線と交差します。
環七通りの本線は、長島陸橋で頭上を飛び越していきます。
城東をあるくのは今回が初めてですが、環七通り、明治通りは城西、城東とで交わったことになります。
浦安橋が見えてきました。
頭上の看板標識も、直進方面は千葉、船橋、と東京の地名が消えました。
浦安橋も導入部分は自動車専用道路で、歩行者は堤防近くまでは側道で進み、階段、スロープで上がっていきます。
側道は車道幅も広く、妙に膨らみの大きな形で側道が始まります。
その始まりの部分に距離ポストがありました。
数字は砂ぼこりにまみれ、薄く消えかかっていましたが、何とか「10.8」という文字を読み取ることができました。
旧江戸川に架かる浦安橋です。
現在の橋は1978年に架橋されたもので、その前の橋は1940年に架橋されましたが、それ以前は渡し船で川を越えていたそうです。
ここからは、都県境の表示や距離ポスト(終点ポスト)やらに注意しながら進みます。
やはり数字は薄くなっています。
こちらは数字はある程度残っていますが、排気ガスの影響でしょうか、煤けています。
文字がかすれていますが、東京都と千葉県の都県境を表す看板です。
都道の終点ポストはありませんでしたが、先程の距離ポストが最後の距離表示でしたので、都道10号線の本線部分は11.2~11.3km程度であったことになります。
1枚目の写真。
手前の黒茶色の柱は、東京都が管理する街路灯です。
東京都のステッカーが見えます。
その奥には、すごく細かいのですが、青白い街路灯が見えます。
こちらは千葉県が管理する街路灯です。
2枚目の写真。
1枚目の黒茶色の街路灯の位置です。
これまた小さく写っているのですが、先程通り過ぎた都県境の看板が奥に見えます。
そうなんです、都県境を越えていると思われる位置に、東京都が管理しているはずの街路灯が1本あるのです。これは何を意味するのでしょうか?
浦安橋東詰でチーバくんがお出迎えしてくれました。
正直言うと、チーバくんの正面からの姿を見たのは初めてのような気がします。
目の前に高架が見えます。
東京メトロ東西線の線路です。
そして頭上の標識看板では、複雑な交差点を示していますが、もうどこにも「10」の文字がありません。
終点は間近です。
千葉県が東京都と同じようなポストを立てているのか分かりませんでしたので、念入りに交差点付近を見てみましたが、少なくともこの交差点には起点・終点ポストはないようです。
矢印看板で、それぞれの県道の進む先を表現していましたが、これで管理しているのでしょうか?
県道10号線を直進する方向は、県道242号線となります。
矢印看板が、交差点の向こう、某牛丼チェーン店の前に立っていました。
したがって県道10号線は、千葉県としてみると、浦安橋の中ほど(とは言っても、3分の1くらい)からの数百m程度で終了となります。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、
時間 : 3時間5分
歩数 : 約18,200歩
距離 : 約13km
でした。
今回の距離計測は、葛西橋手前で旧葛西橋方面へ足を延ばしたことを考えると、かなり正確な数値のような気がします。
さて次回は、都道11号線をあるきます。
起点は大田区東蒲田、終点は調布市国領町です。
第一京浜(国道15号線)の東蒲田二丁目交差点から、甲州街道の旧甲州街道入口交差点までの道のりです。
都道(&神奈川県道)9号線は多摩川の右岸に近いところを沿うように遡上しましたが、都道11号線は多摩川の左岸を同じように遡上する道路となります。
長い距離に亘り、「多摩堤通り」という名称が名付けられていることからも、その性格が見えてきます。
また20kmを越える距離となるようなので、早く涼しくなってくれることを祈るばかりです。
あるきろく20200828番外編
2020年8月28日 あるきろく番外編 自戒を込めて(その2)
あるきろく20200826番外編に続き、犬の散歩で近所をあるきながら、距離ポストを探しました。
おじさんは、「2つ」の都道41号線と都道18号線が囲む地域に暮らしております。
上の地図では、これらの道路の形がねずみ男にも見えますね…。
見えませんか…?
ねずみ男のあごのラインに当たる道路が、古くから存在する都道41号線です。
この4kmポストは、ねずみ男の左あごに当たる「向ノ岡」交差点から、あご先に当たる「春日神社」前まで来たところの歩道橋の下にあります。
このポストも、あるきろく20200826番外編の都道20号線4kmポストと同様、これまでに見たことはあるのでしょうが、全く記憶に残っておりませんでした。
こちらは、向ノ岡交差点からねずみ男の頭頂部に当たる新大栗橋に向かって走る都道41号線のバイパス新道、「向ノ岡大橋」の上にある4kmポストです。
ここも毎日、毎日通るところですが、今の今までここにこれが埋まっているなんて知りませんでした(というか、気にも留めていませんでした)。
写真では小さくなっていますが、この道の奥に見える橋(歩道橋ではなく、もともと谷であったところを渡る橋です)の下が向ノ岡交差点です。
向ノ岡交差点すぐそばの植樹の足元に、3.7kmポストが埋まっています。
これも、この数日で探り当てました。
1979年の写真では、まだ向ノ岡大橋はありません。
都道41号線はあごのラインの1本だけです。
ただし、新大栗橋交差点付近では、すでに整地が始まっているようですね。
ここまで「4km」ポストとだけ記してきましたが、起点は、あるきろく20200823で通った新大丸交差点であると思われます。
川崎街道の名称で川崎方面からやってきた都道9号線から、新大丸交差点で都道41号線が引き継いでいると思われます。
ただし、都道9号線の変遷からして、もう一つ川崎寄りの大丸交差点が起点である可能性もあるので、都道41号線をあるくときには、丹念に距離ポストを拾っていくことにします!
あるきろく20200826番外編
2020年8月26日 あるきろく番外編 自戒を込めて…
都道を9号線まであるき終えました。
最初はヘキサ標識ばかりを追いかけていましたが、5号線からは距離ポストの存在に注目しながらあるくことが多くなりました。
最近では、近所で犬の散歩をするときも、車で移動するときも、ついつい歩道の植込みに青いものがないか、追いかけてしまうようになりました。
今日も、近所のスーパーで買い物をした帰り道、歩道と車道の境目ばかりを見ながらあるいていると、なんとこの距離ポストが立っていたのです。
現在の住まいに10年暮らし、毎日駅までこの道をあるいていますが、いま申し上げます。
「初めて見た!」
いや、初めて見た、ということはないのでしょうか、見たことの記憶が全くありません。
意識をせずにいると、また興味のないものというものは、目の前にあっても、入ってこないということなのですね。
今回の経験で良く分かりました。
なお、都道20号線は、このあと10番目にあるく道になります(13号線は欠番)。
都道9号線の終点であった、府中市役所交差点からしばらくの間、都道18号線との重用区間として、この地図にある新大栗橋交差点まで一緒にやってきます。
ここからは、都道41号線(川崎街道)との重用区間として一ノ宮交差点へ、その先は、あるきろく20190526で通った野猿街道、そして柚木街道として神奈川県相模原市へと抜けていきます。
ということで、今回は番外編でした。
あるきろく20200823
2020年8月23日 あるきろく 都道をあるく(第8回)
朝も昼も夜も暑い日が続いていましたが、8月22日土曜日の夜、部屋に入り込んでくる北風が涼しいものでした。加えて、翌23日は天気があまり良くなく、最高気温も32℃くらい、とのこと…。
ならば、先週も歩いたばかりだけど、今週もあるきに行こう!ということで、今回は都道9号線&神奈川県道9号線をあるきます。
ただし今回は初めて、都内出発ではなく、神奈川県側から東京都に向けての行程です。
今回の起点は、国道15号線、国道132号線から分岐する宮前町交差点です。まず最初は、「市役所通り」という名称で川崎駅前まで進みます。
川崎駅前で右に曲がります。
100mか200mくらいJRの線路と並行にあるきますが、その線路をくぐる手前に、初めて「府中街道」の標識が登場します。
くぐった先にも、片矢印の「府中街道」標識がありました。
この交差点から国道409号線とともに先に向かいます。
国道409号線は、川崎市の高津区を起点とし、東京湾アクアラインを通り、千葉県成田市まで続く道路です。
この交差点から県道9号線とともに進む道は「府中街道」、多摩川下流方面に進む道は、川崎大師を通ることから「大師道」という名称です。
おにぎり看板を発見しました。
そういえば、都道4号線を最後に自立ヘキサ標識看板にはお目にかかれておりません。
今日もお会いできないままに終わってしまうのでしょうか?
遠藤町交差点、国道1号線との交差点です。
都道を2号線から今回の9号線まであるいてきましたが、国道1号線と出会うのは、2号線をあるいて以来です。
ヘキサ標識の登場前に、おにぎりが2つ目です。
やはり、国道パワーの方が大きいということでしょうか?
今日の行程は、多摩川および南武線とずっとお付き合いしながら、北上していきます。
踏切を渡るとすぐに、本日3つ目のおにぎり。
雰囲気としては国道然としない道ながら、やはり恐ろしや国道パワーです。
早4つ目です、おにぎり。
もしかしたら、国道であることを誇示するために、多く立てているのかも。
あるきろく20200215であるいた都道2号線&神奈川県道2号線と交差します。
多摩川から東京側は「中原街道」、多摩川から横浜側は「綱島街道」の名称でした。
あるきろく20200215では、ここでは写真を撮らずに通過しておりました。
都道&県道2号線と丸子橋で分岐した県道45号線と交差します。
都内では都道2号線が名乗っていた「中原街道」を、神奈川県内では県道45号線が引き継ぎます。
府中までの残りの距離が出てました。
残り21kmということですが、起点から終点までの位置関係では、こすぎごてんみどり歩道橋はここになります。
3分の1を終えたかどうか、という感じでしょうか。
ここから府中までは17km。
こすぎごてんみどり歩道橋から、4kmあるいたことになります。
経過した時間は42分。
起伏もないので、だいぶ速いペースであるいているように思います。
国道246号線と交わる溝口交差点です。
3枚目の写真、国道246号線が起点から15.2kmであることの距離ポスト、発見しました。
交差点の手前には、府中街道の名称とともに県道9号線であることが示されています。
さて、頭上の看板では、この先「409」という数字が出てきません。
先述の通り、国道409号線はこの交差点を起点としており、ついにここからは県道9号線の単独行動となります。
これまで、まとまった緑のない道をあるいてきましたが、ここで鬱蒼とした茂みが登場し、また、お世辞にもきれいとは言えない澱んだ「水溜まり」に出会いました。
この碑が立っていなかったら、謎に包まれたままに立ち去っていたと思います。
年に何回か、川崎まで南武線に乗ることがありますが(今朝も乗りましたが)、失礼ながら、久地駅は名前が出てこないランキング1位と言えそうなくらいに、馴染みがない駅です。名前のインパクトとかもあるのでしょうか?
そんな久地駅を眺めながら、踏切を渡ります。
久地駅さん、ごめんなさい。
この都道をあるくシリーズは、これまで都心から郊外へと伸びる道ばかりでしたが、今回の9号線は南北方向の道路です。
したがって、これまであるいてきた都道(県道)2号線、都道(県道)3号線や、大きな国道(1号線、15号線、246号線)など、多くの幹線道路と交差しました。
そしてここでは、東名高速道路とも交差です。
小さい頃はテレビにコミックスと、楽しませていただきました。
藤子・F・不二雄先生のミュージアムがここにあります。
川崎市内にあることは知っていましたが、ここにあるんですね。
先程通った、二ヶ領用水「久地分量樋」跡の少し手前にある梅林交差点で分岐する新道がこの辺りのメインストリートとなっていて、並行して走る県道9号線は交通量も少なめです。
たまに、川崎方面に車でこの辺りを通りますが、やはりその新道を走るため、ミュージアムの存在には気付きませんでした。
交差点を右に曲がると向ヶ丘遊園駅へのアプローチ。
真っ直ぐ県道9号線を進むと、小田急線を跨線橋で越えていきます。
画面には入っていませんが、もう少し右を向いたところにダイエーがありました。
現在の建物が49年経ったようで、建て替えします!と懸垂幕を出していました。
あるきろく20200308で通過したポイントです。
都道3号線&神奈川県道3号線をあるいたときに通りました。
この地図で見ると、右上から左下に向かってあるいていきました。
撮影角度は異なりますが、オレンジ色のビルでお分かりになると思います。
やっと出会うことができました、ヘキサ標識。
多摩警察署前交差点を過ぎ、多摩消防署の前をあるいていたとき、それこそ消防車に気を取られつつあるいているときに、不意に視界に入ってきました。
川崎市多摩区生田1丁目10番18号で、本日2本目のヘキサ標識です。
縮尺次第のところはありますが、1枚の地図に収まる範囲で2本です。
お祭り認定なるか…?
またしばらくヘキサ標識が見当たらないと思っているうちに、東京都に突入するところまでやって参りました。
地図では、点線が都県境にあたります。
これまでずっと進行方向の左側をあるいてきましたが、一旦右側に移りました。
都県境で、標識に何か変化がないか確認するためです。
この標識は、起点または終点を惹起させる形であり、また、支柱に見える印は川崎市の市章です。
東京都に入ると、ご存じ緑色のイチョウの葉が貼付されています。
再び進行方向左側に戻ると、起点ポストが立っていました。
「0主13」と、間違いなく「主要地方道13号線0km」を表す印です…。
ちょっと待てよ?「13」号線??「9」号線は???
wikipediaによりますと、13号線は欠番であり「整理番号9に変更」とあります。
当路線は、距離ポストにあるように、以前は13号線だったようですが、1号線が6号線となったものと同じ理由でしょうか、神奈川県道のナンバリングに揃える形で変更したのでしょうね。
都道19号線と交差する矢野口交差点です。
ここで注目すべきは、ここまで「府中街道」を名乗っていた名称が、「川崎街道」となっていることです。
東京都建設局のホームページに掲載されている「東京都通称道路名~道路の分かりやすく親しみやすい名称~」には、
・府中街道 起点:稲城市大丸 終点:東村山市久米川五丁目
・川崎街道 起点:日野市日野本町一丁目 終点:稲城市矢野口
とあり、東京都としては公的に、この辺りの都道9号線は府中街道ではなく川崎街道として認めています。
余談ですが、支柱には緑色のイチョウのマーク。10:29の写真では、府中街道矢印標識の支柱に川崎市市章がありました。
JR南武線矢野口駅近くに、ヘキサ標識です。
なお、Google Mapでは川崎街道と府中街道の名称が併記されていました。
広域的には、やはり府中街道が一般的だから、ということでしょうか。
地図では右から左に向かってあるいています。
この交差点は、右に曲がると稲城大橋で多摩川を渡りますが、その橋の上で府中市内に入る道と、中央自動車道の上り線に合流する道の2本に分かれます。
なお、府中市内に入る道は、都道9号線の支線となります。
一方、左に曲がると鶴川方面に向かう都道19号線です。
都道19号線は矢野口交差点でも交差しましたが、ここ東長沼陸橋交差点にやってくる都道19号線は支線となります。
ここには、とてもご丁寧に、都道19号線の支線の7km地点であることと、おまけに終点であることを示すポストが立っていました。
この辺りまで来ると、見慣れた光景となり、だいぶ気分も楽にあるくことができるようになりました。
あるく道も、自動車の1車線分の幅より広く、そして歩行者と自転車を分けてあって、かつ通行量が少ない!ので、快調にあるくことができます。
都道9号線は新大丸交差点を右折し、名称も「府中街道」に戻ります。
「川崎街道」は都道41号線となり、おじさんの住居前、聖蹟桜ヶ丘、高幡不動を通り、甲州道中の日野宿まで向かいます。
早速ですが、都道41号線のヘキサ標識がありました。
また、都県境からしばらくは、距離ポストでは都道「13」号線となっていましたが、ここで見つけた距離ポストは「9」号線となっていました。
是政橋で多摩川を渡ります。
マンションのかげになっていますが、正面には東京競馬場のスタンドが見えます。
多摩川上流を眺める写真では、南武線と武蔵野貨物線の鉄橋が見えます。
その向こうには、おじさんの生活圏が写っています。
右に向かう通りは新小金井街道(都道248号線)です。
数百m進んだ先で、東長沼陸橋交差点で別れた都道9号線支線と合流します。
あるきろくは、東京競馬場の西側をなぞるように進み、府中市街地に入っていきます。
あるきろくに2度ご登場いただいた某呉服店のお嬢様が、歌詞にしたためた辺りです。
中央自動車道をくぐり、東京競馬場の西壁脇に立つ府中街道矢印標識を撮影しました。
某ビール工場も、ここからあるいて数分の場所にあります。
無料で見学でき、無料で数種類のビールを飲むことができる、天国のような場所です。
呼び名とは難しいもので、その時代や誰から見てのものなのか、などなど考えなくてはならないですね。
周辺地域にとってみれば、古代から国府の位置付けにあった府中を目指す道として「府中街道」と呼ぶのでしょうが、府中に住む人からすると、この碑にあるように川崎を目指す道なので「川崎街道」となるわけですね。
こういうの大好きなので、じっくりと勉強したいものです。
さてさて、頭上の近未来絵図は、JR武蔵野線・南武線の府中本町駅から競馬場に向かって、濡れることなく直行できる通路です。
競馬場西門交差点からは、立川崖線(府中崖線とも呼ばれます)を駆け上がるように上ります。上り切った位置に、府中本町駅入口交差点があり、ここで左折する道は「鎌倉街道」の名称で、町田方面に向かいます。
また、ここには武蔵国府跡があり、西暦700年頃には武蔵国司の館が、西暦1600年頃には徳川家康により築かれた「府中御殿」があったそうです。某大手スーパーがここへの移転を計画し、発掘調査を行ったところ、このような発見につながり、結果としてこのスーパーは移転を断念せざるを得なくなったようです。
府中本町駅を過ぎ、府中市役所が見え、さあゴールだ!と思っていたところ、目を疑う表示が。
都道9号線の終点は、府中市役所前交差点であって、旧甲州街道である都道229号線との交点のはず。
なのに、その先国道20号線方面まで、都道9号線が続く表示になっている…?
ちょっとまってよ~!
まず、1枚目の写真から。
府中街道は、この交差点を境に南側(看板では右側)が9号線、北側(看板では左側)が17号線であることを示しています。
2枚目の写真。
あるきろく20200113の「11:19 高札場と問屋場」の写真と同じく、府中高札場を正面からとらえた写真です。
3枚目の写真。
交差点の北側に移動し、そこに立つ府中街道矢印標識を写しました。
1枚目の写真と同様、交差点の南側(看板では左側)が9号線、北側(看板では右側)が17号線であることを示しています。
終点ポストがないかとウロウロしてみましたが、見当たらないので、念のため国道20号線交点まで行ってみることにしました。
念のためここまであるいてきました。
甲州街道と交差する府中街道の矢印看板には「17」の数字しかありません。
Google Mapにおいても府中市役所前より北は「17」となっています。
重用区間ということも考えられなくはないので、一応あるいておきましたが、あまり納得がいかない結末ですなぁ…。
交差点の北側にある街路灯のステッカーを見ると、管理番号は「17」。
交差点の南側にある街路灯のステッカーを見ると、管理番号は「9」。
終わりでグダグダしましたが、とりあえず本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、
時間 : 5時間40分弱
歩数 : 約47,700歩
距離 : 約36km
でした。
さて次回は、都道10号線をあるきます。
起点は日本橋交差点で、終点は少しだけ千葉県に入って浦安駅前です。
東側に向かう通りは初めてです。
あるく距離はあまり長くはないようですが、行き来の電車の状況を踏まえながら、実行のタイミングを決めようと思います。
でも今回は、ヘキサもおにぎりもたくさんあったから、良いことにしよう。
あるきろく20200815
2020年8月15日 あるきろく 都道をあるく(第7回)
梅雨が明けた途端、酷暑がやってきました。
酷暑と新型コロナウイルスの感染拡大とが相俟って、外出を控えるべきであることは言うまでもありません。
しかしながら、あるきろくは先に進みます。
さて、今回は都道8号線を、九段下から目白、練馬を経て西東京市に向かいます。
とにかく、暑さにやられないよう、注意しながらあるきます。
靖国神社を背にして、靖国通りを神保町方面を向いて写真を撮りました。
交差点から左手に向かう「目白通り」をこれからあるいていきます。
今回初めて出会った距離ポストです。
写真タイトルに「飯田橋駅」と書きながら、駅の写真を撮り忘れました。
横断歩道がなく、歩道橋が架かる飯田橋交差点に1kmポストがありました。
神田川に沿って西に進んでいると、この看板が現れました。
「ふ~ん」という感じです…。
交差点手前の頭上看板では、8号線は直線と右折の二手に分かれます。
直進する道は「新目白通り」、右折する道が「目白通り」です。
新目白通りを進むと、5km先で目白通りと合流するようです。
ここでは、目白通りを進みます。
さて、江戸川橋で右折して、すぐにこの目白坂下で左折します。
よくお名前はお聞きしますが、はじめてお目にかかりました椿山荘。
ここにあったのですね。
それにしても目白坂下からここまでは、驚くような急坂でした。
4kmポストの向こうに、歴史を感じさせる赤レンガの塀と建物がありました。
数十メートルあるいたのち、この目白通りを挟む形で、日本女子大学の敷地となっていることを知りました。
椿山荘を越えた辺りから、進行方向左手の建物の隙間から、ちらほらと新宿の背の高い建物が目に入ってきましたが、ここ千登世橋は眼下に明治通りと都電荒川線が走り、幅広い眺望が得られました。
残念ながら、撮影のタイミングでは、都電は走ってきませんでした。
目白駅脇の門は何度かお目にかかったことがありましたが、正門は初めてです。
風格ある門構えです。
JR山手線の目白駅です。
こじんまりと佇む、可愛らしい駅舎です。
山手線を越え、都道8号線は郊外へ向けて放射線状に伸びる趣を強めます。
ということは、「山手通り」「環七通り」「環八通り」とどこかしらで交差します。
江戸川橋で別れたもう一つの都道8号線「新目白通り」と、ここで合流します。
道路の形状を見ると、「新目白通り」の先にこれから進む「目白通り」が続き、ここまであるいてきた「目白通り」の先には「新青梅街道」が続く、そんな十字路です。
「新青梅街道」も起点となるこの交差点では「440」という大きな番号を背負っていますが、西に進むと「245」となり、最後は「5」、つまり都道5号線となります。
都道5号線は、あるきろく20200321で踏破しました。
環七通りとの交差点です。
環七通り本線は豊玉陸橋で頭上を越えていきます。
10km到達です。
1時間50分ほどかかりました。
雨の中あるいた都道7号線のペースより、やや遅いですかね。
ここまでに、ペットボトルの水を2回購入し、飲むだけでなく、頭からかぶったりと暑さ対策をしながら、あるいてきています。
それにしても、歩道橋の下、目立つことなく立っていました、距離ポスト。
10kmポストを超えた辺りから、道端の雰囲気が賑々しくなりました。
西武池袋線の高架がちらっと見え始めたころ、練馬区役所がありました。
練馬区役所バス停には小さく「練馬駅」とも書いてあったのですが、あるいている最中は駅がどこにあるかわからないままでした。地図で見て、この位置関係だったことを知ります。
ここで一旦、西武池袋線の北側に回ります。
高架橋はいくつも見ましたが、丸みを帯びたデザインにお花があしらわれており、優しい感じのする高架橋でした。
環八通りとの交差点です。
環八通り本線は、練馬中央陸橋として頭上を越えていきます。
環七通りから環八通りまで34分でした。
これまでの最短記録かと思いきや、都道2号線では27分であるいていました。
関越自動車道の練馬ICへのアプローチポイントとなる谷原交差点です。
交差点のスケール、交通量から、横断歩道はなく歩道橋で道路を越えていきます。
谷原交差点を過ぎてすぐ、「目白通り」はそのまま真っ直ぐ関越道を目指して伸びていますが、その番号は都道24号線となります。
進むべき都道8号線は「富士街道」として西に向かって左折します。
1枚目、引きの写真でお分かりのように、右側を直進するのが目白通りです。
2枚目、よく見ると距離ポストが立っていますが、これは都道24号線の起点ポストでした。
そしてあるきろくは、富士街道を進むことにします。
地図には、別れたばかりの「目白通り」に「8」が附番されています。
でも、先程の距離ポストしかり、遠く見やる頭上の看板標識からも、「目白通り」は「都道24号線」となったことは間違いありません。
落合南長崎駅の上(西落合一丁目交差点)から谷原交差点までは、大きな広い道路でしたが、この辺りは生活道路の雰囲気が漂っています。
15年ほど前に、板橋区の成増駅近くに住んでいたころ、たまに石神井公園駅まで来たことがあります。とは言っても、吉祥寺に向かうバスで通過しただけですが。
ただその頃は、線路も高架ではなかったし、駅舎も古めかしいものだった記憶なので、今回とても驚きながら眺めておりました。
練馬駅の西でくぐった線路を、再びくぐり、西武池袋線の南側に回ります。
ここからは、西武新宿線に向けてあるくことになります。
いつしか練馬区を抜け、西東京市に突入しておりました。
何気なく眺めながら通り過ぎた後に、慌てて写真を撮りに戻りました。
保谷市と田無市が合併して、西東京市が誕生したのが2001年。
19年経ちますが、まだまだ昔の名前で出ています状態でした。
この後も、気にしながらあるいてみると、同じ住所表示看板でも「保谷市」と「西東京市」が隣り合うように掲げられていたり、「保谷市」のマンホールが残っていたり、といろいろでした。
落合南長崎駅では都道440号線として旅立っていった新青梅街道も、出世魚の如くここでは都道245号線となり、再会を果たしました。
この地図を見ていると、この交差点の成り立ちが手に取るように分かりますね。
一番最後にやってきた新青梅街道が、いきなり主役に躍り出た、みたいな感じです。
先ほどの新青梅街道との交差点と、同様のパターンです。
それを更に進化させたケース、とでも言いましょうか。
都道233号線が、都道8号線を分断してしまいました。
仕方がありませんので、横断歩道のある交差点まで迂回します。
保谷中南交差点で横断歩道を渡ります。
1枚目の写真は、先程あるいてきた都道8号線を、都道233号線越しに眺めています。
2枚目の写真は、この先あるいていく都道8号線です。
何だか、寂しい雰囲気が漂い始めてきた、と思うのは私だけでしょうか?
都道8号線を間違いなくあるき続けていることの証明が、地面に埋まっていました。
このように道幅も狭く、新しい道路に虐げられているような感じも否めない都道8号線ですが、しっかりと管理はされているようです。
惜しむらくは、20kmポストもその昔は、先程迂回をせざるを得なかった都道233号線辺りに立っていたのではないか、ということです。
20.7kmの埋め込みポストです。
20.2km以降は、100m間隔で埋め込みポストが必ずありました。
深い愛情を注がれていることが確認できて、とてもうれしく思います。
西武柳沢駅前は一方通行の道でしたが、駅を過ぎてしばらくすると2車線道路となり、歩道には植え込みがある明るい雰囲気になりました。
その植え込みの中に、21kmポストがありましたが、埋め込みタイプながらしっかりとした体裁のものでした。
今回こそは、終点ポストにお目にかかれるかも、と期待して、目前に迫った終点を目指します。
都道4号線青梅街道に合流し、都道8号線は終点となります。
期待した終点ポストですが、2枚目の写真のこれではないかと思います。
色から想像するに…。
1枚目の写真の右下に写っているように、そのロケーションも抜群というか、絶妙な位置であり、間違いないと思うのですが、残念ながら壊れた状態でした。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、時間は4時間と数分、歩数は35,100歩、距離はおよそ26kmでした。
距離ポストのみで考えると、21.5kmくらい?まぁ、いいか。
さて次回は、都道9号線&神奈川県道9号線をあるきます。
9号線は起点が神奈川県川崎市で、終点が府中市とされています。
あるきろく20200113で通った、甲州道中の府中高札場のある交差点が終点です。