あるきろく20200830
2020年8月30日 あるきろく 都道をあるく(第9回)
もう8月も終わろうとしていますが、まだまだ猛暑日になる日が続きます。
こんな暑い日にあるくと、結構ダメージを受けるものです。
しかしながら、今回の都道10号線が比較的短距離であることからも、暑さはどこかに置いておいて、いざ決行です。
都道10号線は、ここ日本橋交差点を起点とし、千葉県浦安駅前が終点です。
この地図は、東京都の都道検索システムの画面ですが、緑色が都道を、オレンジ色が国道を示しています。
日本橋交差点は、「あるきろく20200126 甲州道中をあるく(8日目)」で通過して以来です。
都道10号線の起点ポストはどこか?と、交差点をあっちに渡り、こっちに戻り、で歩道の縁をさがしました。
すると、国道1号線の距離ポストが、交差点の東京駅寄りにありました。
都道10号線の起点ポストは見当たりませんでした。
昭和通りである都道316号線と交差します。
この地下では、東京メトロ東西線と都営地下鉄浅草線が交差しています。
新大橋通りである都道50号線と交差します。
都道50号線も都道10号線と同じく、千葉県(市川市)を目指して伸びる道です。
この地下では、東京メトロ東西線と東京メトロ日比谷線が交差しています。
日本橋川から分かれる亀島川に架かる橋です。
橋の名称は、江戸時代初期にあった霊岸島、霊岸寺が由来とのこと。
葦の茂る低湿地を埋め立てて、現在の中央区新川1丁目、2丁目辺りに島ができました。
そこに建てられた寺が霊岸寺であり、島の名称も霊岸島となったそうです。
この霊岸寺は、明暦の大火の後に深川に移転しますが、今もなお清澄白河駅のすぐそば、深川江戸資料館と同じ区画に「霊巌寺」として現存します。
なお、橋の北側の眺めは、ご覧の通り水門のみです。この向こうに日本橋川が流れているようです。
日曜日の朝なので車通りは少ないですが、普段は相当多くの車が通ると思われます。
距離ポストの汚れ方が凄かったです。
最初の1kmは、20分弱とだいぶスローペースで入りました。
隅田川に架かる国の重要文化財でもある永代橋は、古くは江戸時代、元禄11年(1698年)に架橋され、赤穂浪士が討ち入りの後に渡ったとも言われています。
1807年には富岡八幡宮の例祭に訪れた参拝客の重みに耐えられず落橋、1923年の関東大震災では焼け落ちた、という歴史の後、現在の橋は1926年に震災復興事業第一号として架橋されました。
北の方角には東京スカイツリーが、南の方角には湾岸のタワマンが聳えているのがよく見えます。
大島川西支川に架かる橋です。
こちらも江戸時代、文久2年(1862年)の尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図には記されており、現在の橋は昭和4年に架けられ、昭和41年の拡幅工事を経て今に至るようです。
東詰には、次の一万円札の顔となる、明治から大正にかけて活躍した実業家である渋沢栄一の居宅跡がありました。
清澄通りである都道463号線と交差します。
またこの地下では、東京メトロ東西線と都営地下鉄大江戸線も交差します。
門前仲町と言えば富岡八幡宮です。
江戸最大の八幡宮で、江戸時代初期の寛永4年(1627年)に創建されたとされます。
当時のこの辺りは、永代島と呼ばれる低湿地であったようですが、砂州を埋め立てることにより社有地を広げ、また後に整えられた庭園は庶民からも人気の名所であったようです。
また、現在も毎年8月に行われる深川八幡祭りは江戸三大祭りの一つに挙げられます。
アーケード街には、富岡八幡宮を紹介する江東区の看板があり、見えてきた鳥居はとても立派なものです。
平久川に架かる橋です。
この橋も、尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図に記されていたそうです。現在の橋は、平成5年架橋とのことです。
川のないところに橋が現れました。
下に見えるのは自転車置き場です。
何だろう?と思っていたら、路傍に解説板がありました。
平成14年に撤去した、とありますが、撤去とともに川を埋め立てた(もしくは暗渠化)ということなのでしょうか…。
三ッ目通りである都道319号線と交差します。
一般的には呼ぶことはありませんが「東京都市計画道路幹線街路環状第3号線」、つまり「環状3号線」として整備されている道路です。
「環7」「環8」はそのままに呼ばれているのに、どうしてこちらはそのようにならなかったのでしょうか?
大横川に架かる橋です。
最近の某深夜番組で、満潮になったら、水が引くまで通ることができない低い橋をくぐる、すなわち「リンボー・クルージング」と題してとして紹介され、実際に某タレントさん達がこの橋の下をくぐっていったようです。
四ツ目通りである都道465号線の起点となる東陽町駅前交差点です。
起点ポストを発見しましたが、「特例都道」ということで「特」の文字が刻まれています。
「特例都道」とは何か?と調べましたが、「都の特別区内で、道路法第7条第1項の規定によらず、道路法第89条によって区間を定めた道路」ということです。
何のことだか全くわかりません…。
東陽町を過ぎ、数分あるくと5kmポストがありました。
今回は10km程度の距離と見込んでいますので、大体半分まで来たかなぁ、という感じです。
この5kmポストを越えてすぐ、架線のない単線の線路を踏切で渡ります。
路線の戸籍としては、JR総武本線であり、その貨物路線とのことです。
小岩から越中島貨物駅へ至ることから、越中島支線と呼ばれているようです。
越中島支線の踏切を越えて、ものの数秒で、日曹橋交差点で明治通りにぶつかります。
日曹橋という名称ですが、日曹橋そのものは昭和58年に撤去され、現在では橋は存在しません。
日曹橋は、この交差点のすぐ南側で洲崎川にかかっていた、ということです。
また、「日曹」という名称についても、その昔日本曹達という会社の工場がこの地にあり、それが由来となっているようです。
日曹橋交差点では、そのまま真っ直ぐ都道10号線および永代通りの名称が、そのまま東に向かって伸びています。しかし、最近までこの日曹橋交差点は丁字路だったようです。そして都道10号線も、明治通りである都道306号線とともに北上し、荒川に向かっていたようです。
ということで、あるきろくはここで左折、明治通りに入り北上します。
明治通りの名称を借りて北上した都道10号線は、この南砂四丁目交差点でも、右折して葛西橋に向かう葛西橋通りと、もう少し明治通りで北上し、もう一つ先の交差点から旧葛西橋に向かう清州橋通りとに分かれます。
今日は、ここで葛西橋通りに入り、葛西橋を目指します。
丸八通りである都道476号線と交差します。
平成26年まで、丸八通りは北から走ってきて、この交差点を終点としていたようですが、現在は南へ延伸され、延長された永代通り(都道10号線支線)と南砂町駅前交差点で合流して終点となっているそうです。
荒川を渡る葛西橋の西詰に到着しました。
現在の葛西橋は1963年に完成しましたが、それまではここから300mほど上流に(旧)葛西橋が架かっていました。
南砂四丁目交差点から明治通りとして北進した都道10号線の支線は、境川交差点からは清州橋通りとなって(旧)葛西橋まで伸びています。
一旦、(旧)葛西橋に向かって都道10号線の本線をはずれます。
葛西橋西詰から神明通りを通り、旧葛西橋交差点まで来ました。
写真では、西方から清州橋通りをやってきた都営バスが、神明通りに入っていくところを写しています。
1972年までは、都電が清州橋通りを、この旧葛西橋交差点まで来ていたそうです。
メンズショップ マツザカヤの右側にゆるく曲がる道を進むと、(旧)葛西橋に到達します。
今回一番の痛恨のミスを犯しました…。
ここ東砂六丁目交差点に到着し、都道10号線「支線」の終点ポストがないか、交差点をぐるぐると探しました。でも、ありませんでした。
もちろん、すべての終点にポストがあるわけでもありませんし、ここもそんなもんだろう、と交差点を右折し、葛西橋に向けて歩みを進めました。
帰宅する電車の中で、都道検索システムでルートをおさらいしたところ、なんと!交差点の先堤防まで緑色に塗られているではありませんか…。
もしかしたら、堤防の辺りに終点ポストが立っているのかもしれない、と思うと、悔しくて悔しくて「夜も眠れません(←ウソ)」。
葛西橋西詰交差点に戻ってきました。
頭上は葛西橋の導入部分です。
導入部分は自動車専用道路で、歩行者は堤防沿いの階段を上って合流します。
この導入部分の下に、バス停がありました。
橋脚と橋脚の間をうまく使った、バス停&転回場所でした。
階段を上り、葛西橋を渡り始めます。
1963年の架橋は先ほど記しましたが、全長が727.4mの鋼カンチレバー突桁式吊補剛桁橋、とのことです。読んでも、まったくどんな種類の橋なのか分かりませんが…。
727.4mのうち、荒川を渡る部分が565.2m、中川を渡る部分が162.2mとのことです。
清州橋通りの延長線上に存在した(旧)葛西橋は、1928年に架橋された木橋脚の橋でした。路線バスも通っていましたが、1950年には老朽化のため崩落事故も発生したそうです。復旧の後は、車の通行は禁止され、仮設の人道橋として使用されてきたそうです。
そして、現在の葛西橋の架橋とともに、その役目を終えたとのことです。
1960年ごろのものと思われる葛西橋の航空写真です。
新旧の葛西橋がともに写っています。
まだ、現在の葛西橋は架橋中と思われます。
首都高速中央環状線の足元です。
荒川と中川を並行させながらも合流させないのは、やはり治水上こちらが合理的なのでしょうか。地図だけを眺めていると、とても不思議な感じがします。
さて、この中提が憩いの場的な場所になっていることは、今回初めて知りました。
葛西橋を渡り江戸川区に突入しました。
橋を越え、最初の信号・横断歩道のところに8.2kmの距離ポストがありました。
船堀街道である、都道308号線と交差します。
船堀街道は、荒川・中川に並行して南北に京葉道路から湾岸道路までを走る路線です。
そろそろ終点を意識して、距離ポストを改めて注視していきます。
8.2kmからの800mで12分かかりました。ペースは少し遅めですね。
環七通りである都道318号線と交差します。
環七通りの本線は、長島陸橋で頭上を飛び越していきます。
城東をあるくのは今回が初めてですが、環七通り、明治通りは城西、城東とで交わったことになります。
浦安橋が見えてきました。
頭上の看板標識も、直進方面は千葉、船橋、と東京の地名が消えました。
浦安橋も導入部分は自動車専用道路で、歩行者は堤防近くまでは側道で進み、階段、スロープで上がっていきます。
側道は車道幅も広く、妙に膨らみの大きな形で側道が始まります。
その始まりの部分に距離ポストがありました。
数字は砂ぼこりにまみれ、薄く消えかかっていましたが、何とか「10.8」という文字を読み取ることができました。
旧江戸川に架かる浦安橋です。
現在の橋は1978年に架橋されたもので、その前の橋は1940年に架橋されましたが、それ以前は渡し船で川を越えていたそうです。
ここからは、都県境の表示や距離ポスト(終点ポスト)やらに注意しながら進みます。
やはり数字は薄くなっています。
こちらは数字はある程度残っていますが、排気ガスの影響でしょうか、煤けています。
文字がかすれていますが、東京都と千葉県の都県境を表す看板です。
都道の終点ポストはありませんでしたが、先程の距離ポストが最後の距離表示でしたので、都道10号線の本線部分は11.2~11.3km程度であったことになります。
1枚目の写真。
手前の黒茶色の柱は、東京都が管理する街路灯です。
東京都のステッカーが見えます。
その奥には、すごく細かいのですが、青白い街路灯が見えます。
こちらは千葉県が管理する街路灯です。
2枚目の写真。
1枚目の黒茶色の街路灯の位置です。
これまた小さく写っているのですが、先程通り過ぎた都県境の看板が奥に見えます。
そうなんです、都県境を越えていると思われる位置に、東京都が管理しているはずの街路灯が1本あるのです。これは何を意味するのでしょうか?
浦安橋東詰でチーバくんがお出迎えしてくれました。
正直言うと、チーバくんの正面からの姿を見たのは初めてのような気がします。
目の前に高架が見えます。
東京メトロ東西線の線路です。
そして頭上の標識看板では、複雑な交差点を示していますが、もうどこにも「10」の文字がありません。
終点は間近です。
千葉県が東京都と同じようなポストを立てているのか分かりませんでしたので、念入りに交差点付近を見てみましたが、少なくともこの交差点には起点・終点ポストはないようです。
矢印看板で、それぞれの県道の進む先を表現していましたが、これで管理しているのでしょうか?
県道10号線を直進する方向は、県道242号線となります。
矢印看板が、交差点の向こう、某牛丼チェーン店の前に立っていました。
したがって県道10号線は、千葉県としてみると、浦安橋の中ほど(とは言っても、3分の1くらい)からの数百m程度で終了となります。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、
時間 : 3時間5分
歩数 : 約18,200歩
距離 : 約13km
でした。
今回の距離計測は、葛西橋手前で旧葛西橋方面へ足を延ばしたことを考えると、かなり正確な数値のような気がします。
さて次回は、都道11号線をあるきます。
起点は大田区東蒲田、終点は調布市国領町です。
第一京浜(国道15号線)の東蒲田二丁目交差点から、甲州街道の旧甲州街道入口交差点までの道のりです。
都道(&神奈川県道)9号線は多摩川の右岸に近いところを沿うように遡上しましたが、都道11号線は多摩川の左岸を同じように遡上する道路となります。
長い距離に亘り、「多摩堤通り」という名称が名付けられていることからも、その性格が見えてきます。
また20kmを越える距離となるようなので、早く涼しくなってくれることを祈るばかりです。