あるきろく20200321
2020年3月21日 あるきろく 都道をあるく(第4回)
3月は3週続けてのあるきろく。
第四日目は、都道5号線をあるきます。
今日のスタートは、先週通った、田無町一丁目交差点。
都道5号線は、新宿三丁目を起点としますが、この交差点までは都道4号線との重複区間です。
ということで、都道4号線と分岐するこの交差点から歩くことにします。
2枚目の写真で、右手が都道4号線(所沢街道)、左手が都道5号線(青梅街道)です。
道路の真ん中に出て撮影した理由。
ここからしばらく、都道5号線は一直線に西に進むので、それを撮りたかったのです。
ちなみに撮影したのは、地図ではヘキサ「5」マークがある辺りです。
西東京市から小平市に突入しました。
今日は、いくつの自治体を通ることになるでしょうか。
西武新宿線は高架区間が少なく、青梅街道とも踏切での交差となります。
一旦通り過ぎた後、戻ってまじまじと標識を見つめてしまいました。
自転車&歩行者専用の道もあるんですね。
都道同士の交差点ですが、いつもの街道標識がありません。
そこそこ大きな交差点なのですが。
ここまでにもいくつか道路に埋まっていたものです。
「主」は主要地方道、「5-1」は都道5号線の本線、「5.5」は田無町一丁目からの距離、を表しているものと思われます。
西武多摩湖線を踏切で渡ります。
すぐ目の前に、そのままの名前「青梅街道駅」があります。
都道4号線と都道5号線をつなぐ道路でもある府中街道と交差します。
府中街道はこの2つの交差点でクランクしながら南北方向に走りますが、所沢方面は都道16号線、府中方面は都道17号線と、この交差点で切り替わります。
府中街道を越えてすぐ、西武国分寺線の踏切を渡ります。
本日、早くも3つ目の踏切です。
ここまで一直線(厳密にはそうではなかったのかもしれませんが…)だった青梅街道ですが、視覚的にも明らかな曲線がここで現れました。
西武拝島線は高架で頭上を越えていきます。
高架をくぐり、本日3つ目の自治体となる東大和市に突入します。
都道5号線(青梅街道)は、ここで西向きから北向きに方角を変えます。
都道5号線同士が十字に交わる不思議な交差点です。
いま進んでいるのは、南北に走る「青梅街道」。
交差するのは、東西に走る「新青梅街道」。
バイパスの性格を持つ新青梅街道と、歩みを進める青梅街道の位置関係を表しています。
先ほどの奈良橋庚申塚交差点から、この先合流する瑞穂松原交差点までは、青梅街道はだいぶ膨らみながら西へ向かいます。
本日4つ目の自治体に突入します。
東京都内で、唯一「て◯ど◯」が敷かれていない市です。
少し手前で、西から南へと向きを変えた都道5号線は、この交差点で再び西向きに方向を変えます。
そのまんまの名前の交差点名です。
本日5つ目の自治体、瑞穂町です。
数少なくなった、町制のままの自治体です。
南部は米軍横田基地が占めています。
時計台とともに信号の上に見える表示に、ものすごく大きな興味が湧きました。
時計台の脇には、青梅街道と日光街道の昔の姿について触れた解説板がありました。
本日4つ目の踏切です。
奥に小さく見えるのが箱根ヶ崎駅です。
ここで新青梅街道と合流します。
本線はあくまでも青梅街道なのですが、道路形状を見る限り、新青梅街道に「青梅街道が合流する」ような感じです。
「東京環状」国道16号線との交差点です。
国道16号線がアンダーパスするのですが、地上に現れる道路には数多くの大型トラックなどが見えました。
双方の道路が広いこともあり、また周囲の建物の背丈も低いことから、空の見え方がこれまでと比べてとても雄大です。
青梅まで7kmの表示がありました。
あと2時間弱かな、できれば1時間半くらいで歩きたいな、なんて思いながら先へ進みます。
本日の目的地となる青梅市に突入します。
本日6つ目の自治体です。
遠くからも目を引く、茅葺の立派な建物です。
見学できるようですが、本日は写真だけを撮り、先を急ぎます。
都道5号線はこのY字路を左に向かい、この後急坂を下ります。
多摩川はもう少し先のようですが、おそらくは河岸段丘としてできた地形と思います。
先程の交差点から車道は坂を下り、JR青梅線をアンダーパスします。
今日は多くの路線と交差しました。
引き続き、坂道は下っていきます。
都道31号線「秋川街道」と交差します。
秋川街道は、写真右手から急坂を下ってこの交差点に辿り着き、さらに多摩川を渡って武蔵五日市へと抜けていきます。
実はすでに、あるきろく20190505でこの道はあるいています。
ただし、あるきろく初期であり、ただ黙々とあるくだけで、写真が全くと言っていいほどに残っていません(東飯能駅、青梅駅、武蔵五日市駅しか写真がない…)。
頭上の標識を確認します。
目の前の丁字路は、左に行っても、右に行っても国道411号線です。
そうです、この先の交差点が都道5号線の終点です。
都道5号線はここで終わりますが、青梅街道は国道411号線となって、奥多摩方面に向かいます。
さらには奥多摩を抜け、山間を抜け、甲府市酒折の山崎三叉路で甲州街道と合流します。
山崎三叉路は、あるきろく20190805で通っています。
植栽の中に、距離ポストを見つけました。
この円柱タイプは、新青梅街道と合流してから目にするようになりました(青梅街道では、地面に張り付けたような形でした)。
根元には「主5」の記載、距離は27.8km、そして「終点」であることを明示しています。
この距離は、北原交差点からの新青梅街道としての都道5号線のものと思われます。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
時間は5時間45分、歩数は41,500歩、距離は31.1kmでした。
スマートウォッチによる計測からも、やはり距離ポストの数値は新青梅街道のもの、と考えられます。
ちなみになんですが、今回はヘキサ標識は一つも出現せず、でした。残念…。
あるきろく20200315
2020年3月15日 あるきろく 都道をあるく(第3回)
3月は2週続けてのあるきろく。
第三日目は、都道4号線&埼玉県道4号線をあるきます。
甲州道中あるきろくの最終日にも通った、新宿三丁目交差点です。
道路標識では、都道305号の「明治通り」となっていますが、ここから新宿五丁目交差点までは、都道305号線を上位道路として、都道4号線と都道5号線の3つが重複する区間となっているようです。
新宿三丁目交差点から新宿五丁目交差点までは、200mくらいでしょうか。
真っ直ぐ進む都道305号線との重複区間は、ほんのわずかでした。
新宿五丁目交差点から新宿大ガードまでは、都道302号線の「靖国通り」との重複区間となります。
なお、都道4号線と都道5号線は、しばらくの間、重複区間としてともに進みます。
新宿五丁目交差点から右手に歌舞伎町の雑踏を見つつ、新宿大ガードに至ります。
新宿大ガードの東までは「靖国通り」、新宿大ガードの西からは「青梅街道」として都道4号線(&5号線)は西に向かって進んでいきます。
新宿の副都心を左手に眺めながら、緩やかに坂を下った先に区界がありました。
中野区に入ってすぐ、坂を上っていきます。
坂を上がり切ると、中野坂上交差点です。ここで山手通り(都道317号線)と交差します。
本日はじめてのヘキサ標識です。
ポールではなく、頑丈な柱に据え付けられたものでした。
本日2つ目のヘキサ標識です。
これまでの2回と比べて、自治体跨ぎの回数が多くなりそうです。
蚕糸の森公園に面したところに、青梅街道の歴史が記されていました。
ラジオの交通情報(渋滞情報)でよく耳にする「高円寺陸橋」を通過します。
本日3つ目のヘキサ標識です。
日曜日の朝早くということもあり、幅広の道路も交通量はまばらです。
本日4つ目のヘキサ標識です。
1つ目から2つ目までが13分。
2つ目から3つ目までが23分。
3つ目から4つ目までが21分。
この4つ目は荻窪駅手前の天沼陸橋を渡り終えようとしている場所に立っていました。
正直言って、視認性が良い場所とは思えませんが、あえてここに立てているということは、もしかして、今までは適当に立っていると思っていましたが、均等に並んでいる?
今日は、環七~環八の時間は42分でした。
都道2号線の27分、都道3号線の39分から、さらに相互間の時間(距離)は離れた模様です。
こんなに立派な鳥居のある神社があるとは思ってもみませんでした。
本日5つ目のヘキサ標識です。
4つ目から31分と、これまでのリズムと異なっています。
やっぱり、ランダムに設置されているのでしょうか?
新宿区、中野区、杉並区に続き、本日4つ目の区をあるきます。
練馬区でも、青梅街道の歴史探訪がありました。
こんなんいくつあってもいいですからねぇ。
練馬区はあっという間に通過してしまいました。
ここで初めて、本日の目的地である「所沢」が標識に現れました。
この先の交差点から、都道5号線が青梅街道を名乗ることになります。
奥に小さく見えますが、都道4号線はここから「所沢街道」を名乗ります。
厳密には、都道5号線は新宿三丁目が起点ですが、ここまで重複期間をあるいてきましたので、次回のあるきろくは、この交差点からスタートすることにします。
この北原交差点では、新青梅街道と交差します。
新青梅街道も、ここから西の区間は都道5号線(支線、バイパス扱い)ですが、次回は本線である青梅街道をあるいていきます。
西東京市は50分で通過です。
小金井街道(都道15号線)と交差します。
左折すると、小金井を通り府中に至る道路です。
新小金井街道(都道15号線)と交差します。
先ほどの小金井街道も都道15号線でしたが、府中市や小金井市、小平市の辺りでは、新小金井街道は都道248号線であって、東村山市に入る辺りから都道15号線の支線となります。
右折すると、都道40号線となり「志木街道」の名称に。
都道4号線は一旦左折し、100mちょっと進んだのち、今度は右折します。
すぐに右折の交差点に辿り着きました。
ここを直進するのは、都道16号線「府中街道」です。
ついに埼玉県所沢市に突入です。
左に写る柱は街路灯ですが、ステッカーに記載の「管理番号」が都道の番号であることに本日気付きました。
埼玉県に入った後はどうでしょうか?
埼玉県に入ってすぐ、ヘキサ標識がお出迎えしてくれました。
ただし、都内では「所沢街道」という名称でしたが、「東京所沢線」という味気ない名称が付いていました。
埼玉県に入って最初の街路灯です。
④が県道4号線を表しているのでしょうか…。
右前方には、西武百貨店のサインが見え、所沢駅周辺の雰囲気が漂ってきました。
県道4号線「東京所沢線」は、この先のY字交差点を左側に進みます。
埼玉県内2つ目のヘキサ標識です。
標識看板がキレイです。
この先、五差路ですが、どの道にも「4」の数字がありません。
ついにゴール間近です。
どっちに向かっても、県道4号線ではありません。
新宿からの都道4号線&県道4号線は、ここで終点です。
この交差点から、東村山方面が県道4号線であることを教えてくれています。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
時間は5時間、歩数は37,800歩、距離は28.3kmでした。
次は、都道5号線の重複区間ではない部分をあるきます。
今日も通った、田無町一丁目交差点から「青梅街道」本線を通って、青梅市に向かいます。
あるきろく20200308
2020年3月8日 あるきろく 都道をあるく(第2回)
早いもので3月になりました。
前回から始めました「都道をあるく」第二日目スタートです。
都道3号線は、三軒茶屋を起点に町田市中町に至る主要地方道です。
三軒茶屋で国道246号線から分岐して、「世田谷通り」として西に向かいます。
スタートしてすぐに、まさかの歴史探訪でした。
日曜日の朝早くということもあり、この下をくぐる環七通りの交通量も極めて少なかったです。
本日はじめてお目にかかりました、ヘキサ標識。
世田谷代官お膝元という強烈な「圧」に、ついつい写真を撮ってしまいました。
後から調べてみると、彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅であって、大場代官屋敷と呼ばれていたそうです。
主屋と表門が重要文化財に指定されているそうです。
上町銀座会も結構な「圧」をかけてきました。
都道3号線はここで二手に分かれます。
一方は上町駅前経由、もう一方はバイパスのような感じでショートカットするコース。
今回は、上町駅前経由で進みます。
19分振りのヘキサ標識です。
都道2号線にはヘキサ標識はありませんでしたので、なかなかの厚遇ぶりです。
(神奈川県道2号線は、ヘキサ標識祭りでしたが…)
はっきりとは聞こえませんでしたが、何かしらの音楽に合わせて舞っていました。
時刻からして、ラジオ体操であると思われます。
ちなみに、ここは馬事公苑です。
わずか11分で、次のヘキサ標識に出会えるとは、なんとまぁ!です。
都道2号線をあるいたときは、環七から環八まで27分でした。
今日は39分ということで、こちらの方が距離があるということです。
わずか9分で次のヘキサ標識に遭遇しました。
もう、お祭り認定をしてもよろしいでしょうか?
ちなみに、看板の向いている方向が気になるのは私だけではないはずです。
はい、お祭り認定です。
わずか10分で次のヘキサ標識登場です。
多摩堤通りは都道2号線とも交差しました。
この交差点が起点でしょうか?
それにしても、左に二子玉川、右に成城学園、とセレブな雰囲気を醸し出す標識です。
お祭り、大盛り上がりです。
おまけに2ついっぺんに登場です。
ということで、この辺りは3号線と11号線の重複区間ということです。
ここまでは、ずっと世田谷区内をあるいてきましたが、ここから狛江市です。
面積の広い市ではないので、すぐに多摩川に辿り着けるよ、な?
11号線とはここでお別れです。
11号線は京王線国領駅近くを越え、国道20号(甲州街道)に向かって行きます。
北向きに松原通り、南向きに和泉多摩川通り、そして西を見ると多摩川に架かる多摩水道橋。ようやく、神奈川県に入ります。
2号線と同様、都道3号線はこの先神奈川県道3号線となって先に進みます。
2号線と異なる点は、その後もう一度東京都道3号線に戻ることです。
神奈川県に入り、名称も津久井道となります。
多摩水道橋を渡り最初の標識でしたが、残念なことに字が読めない状態でした。
JR南武線と並行して走る府中街道との交差点です。
ここで右折すると、我が家まで道なりで帰宅できます(距離はそこそこありますが)。
神奈川県に入って、初めての3号線標識と思われます。
残念ながら、ヘキサ標識ではありませんでした。
この距離表示を見て、だいぶ落胆しました。
あるき始める前、とりあえず多摩川、とりあえず新百合ヶ丘を目指して頑張ろう。
そして新百合ヶ丘まで辿り着けば、町田まではすぐだ、と思っていました。
新百合ヶ丘から町田って10kmもあるの?
小田急線に乗っても、そんなに時間かからないのに…。
新百合ヶ丘駅を過ぎてすぐ、の辺りです。
新百合ヶ丘駅に近いところはすでに片側2車線、歩道もきれいに整備されていますが、少し離れると(登戸側も、町田側も)拡幅工事真っ只中、の状態です。
この通りはとにかく車が数珠繋ぎになりますので、道が拡がることはありがたいものです。
ここでも3号線標識は、ヘキサ標識ではありませんでした。
町田まで8km。
ゆっくり歩いて2時間の距離です。11時ゴールを目安にあるいていきます。
再び東京都に戻りました。
したがって、再び東京都道3号線となります。
調布方面から鶴川街道の名前を連れてきてくれました。
ここから都道3号線は終点まで鶴川街道を名乗ります。
また、この交差点を左に曲がり、山を越えるとこどもの国があります。
先の交差点を渡ると、こちらの標識にて都道3号線が鶴川街道であることを表示していました。
都道3号線はこの交差点で左折します。
真っ直ぐ進む道(都道57号線)は芝溝街道という名称のようです。
久し振りのヘキサ標識です。
振り返ってみれば、神奈川県内では1つもありませんでした。
前回の都道2号線&神奈川県道2号線とは反対の現象です。
この先、左折して町田市街に向かいます。
この坂を上った先に菅原神社があります。
この交差点から2~300mですが、都道3号線と都道18号線は重複区間、名称も鶴川街道と鎌倉街道が地図上併記されます。
標識や立て看板の通り、都道3号線は幅も狭く、どこに向かうのかよく分からない不可思議な道路となります。
2車線道路は都道52号線の鎌倉街道として、国道16号に向かっていきます。
すれ違うのもやっとな幅の道路となりました。
信号待ちの車列の通り、ゴール周辺はだいぶ寂しい雰囲気となりました。
しかし、車通りはひっきりなしなんです。
この交差点で、町田街道(都道47号線)にぶつかります。
鶴川街道は交番脇の道路にそのまま続きますが、都道3号線はここで終点です。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
時間は4時間40分、歩数は35,400歩、距離は26.5kmでした。
次は、都道4号線&埼玉県道4号線です。
新宿大ガードから所沢にいたる道路をあるきます。
あるきろく20200215
2020年2月15日 あるきろく 都道をあるく(第1回)
甲州道中をあるき終え、若干の喪失感がある中、さて次はどこをあるこうか、考えてみました。
江戸の五街道や、近所でいえば鎌倉街道なども考えましたが、いずれもそんな簡単にはあるけない…と悩んでしまいました。
で、いろいろ考えた結果、都道を番号順にあるいてみることにしました。
これなら、基本的に都内で完結することから、そこそこの頻度であるけそうです。
早速、「都道をあるく」第一日目。
いきなりですが、都道に「1号線」はありませんでした。
以前は「東京大師横浜線」が該当しましたが、神奈川県道の番号(6号線)に合わせることになったため、現在は欠番となっています。
大崎広小路交差点では、環状6号線(山手通り)と交差します。
久し振りに訪れましたが、交差点に鎮座していた「ゆうぽうと」が駐車場になっていました。
都道2号線は都内では「中原街道」の名称です。
右側の道を、丸子橋に向かって進みます。
国道の標識は「おにぎり」と呼ばれています。
都道府県道は六角形であることから「ヘキサ(ゴン)」と呼ばれるようです。
五反田からしばらく上った丘の上から、一旦下り、その底に位置する交差点です。
大きな陸橋と立体交差します。
環七通りは都道318号線ですが、大崎広小路で交わる環状6号線(山手通り)は都道317号線でした。
多摩地区在住なもので、この辺りの区界は頭に入っておりませんが、とりあえず大田区に突入しました。
なお、都道2号線を歩いてみて感じることは、1970年代に建ったと思しき大型マンションが多いこと、外車のディーラーが多いこと、です。
大田区に入ってすぐ、中原街道と洗足坂の歴史を語る碑がありました。
確かに視界が急に開け、緩やかにカーブをしながら、洗足池に向かって下っていきます。
ボートにも乗ることができる大きな池があるんですね。
全く知りませんでした。
洗足池を越えると、また坂を上ります。
ここまでにも、結構起伏の多い道のりとなっています。
陸橋の向こうに見える建物は、田園調布警察署です。
ここでも都道11号線(多摩堤通り)と交差します。
都道2号線は丸子橋までですが、このまま橋を渡ります。
ここからは、神奈川県道2号線になりますが、引き続きこの終点を目指してあるきます。
かつては、複数の都府県を跨ぐ道路では整理番号(◯号線)が、都道府県ごとに異なることも多かったそうですが、現在では境界を跨ぐ都道府県道のほとんどで同一の番号が附番されています。
※都道1号は欠番となったのは、神奈川県道6号線に合わせたから、でした。
なお、ここから街道名称は「綱島街道」となります。
昨年の台風の時に、いろいろと取り沙汰された武蔵小杉のタワマン群です。
この種の標識は、今日初めてお目にかかりました。
この交差点を過ぎ、しばらくすると横浜市に入り、丘を上っていきます。
丘を上ると日吉駅、慶応大学がありました。
そこから再び坂を下り、箕輪、綱島といった地名を見ながらあるいています。
標識には「新横浜」という文字もちらほら見え始めます。
ここで初めて、道沿いにショッピングセンターに出会いましたので、トイレを拝借。
お腹も空きましたが、我慢してあるきます。
ここまで東急東横線と並行してきた神奈川県道2号線ですが、トンネルをくぐってきた東海道新幹線が東急東横線と神奈川県道2号線の間に入り込んできたあたりです。
交差点を右に曲がると、新横浜です。
大豆戸交差点は大きな歩道橋で渡りました。
で、この地名は何と読む?
ダイズド?
オオマメド?
左に小さく写るバス停で解決しました。
「マメド」と読むんですね。
「大」っていらんやろ!というのが、私の心の声です。
菊名駅を過ぎると、クネクネっとした上り坂になります。
上り切ったところで、道が二手に分かれます。
左手に分かれる道はジェットコースターのように下っていきます。
神奈川県道2号線は右に進みます。
ずっと高台をあるいています。
建ち並ぶ家々の間からは、度々絶景が目に入ります。
緩やかに下り始めました。
ヘキサ標識が、わずかな間隔で現れました。
映える絵面です。
ヘキサ標識の間隔がどんどん短くなります。
更に短い間隔で現れるヘキサ標識。
ヘキサ標識祭りです。
神奈川県に入ってから、しばらくは見なかったヘキサ標識ですが、ここにきて大売出し状態です。
右に行っても国道1号線。
左に行っても国道1号線。
ということで、ついに終点が見えてきました。
目の前に終点が迫ります。
スタート直後の中原口でお会いした国道1号線との再会をもって、都道2号線&神奈川県道2号線のあるきろくは終了。
時間は3時間半、歩数は25,700歩、距離は19.3kmでした。
Wikipediaでは、路線延長20.0kmってなってましたが…。
まぁ、誤差の範囲でしょうか?
次は、都道3号線&神奈川県道3号線です。
三軒茶屋から町田へ至る道路をあるきます。
あるきろく20200126
2020年1月26日 あるきろく 甲州道中をあるく(8日目)
2020年のあるきろく、3日目です。
甲州道中をあるいてきましたが、ついに残り4里弱。
早速ですが、スタートです。
雪が降る、とのことでしたが、しとしとと冷たい雨。
新宿や日本橋の街が目覚める前にゴールすべく、早い時間のスタートです。
ここに至るまでに、甲州道中の北側には寺院と大きな墓地が続きました。
和田堀廟所には樋口一葉の墓があるそうです。
暗い写真で恐縮です。
玉川上水にかかる橋、代田橋の跡です。
四代将軍家綱の命により、玉川兄弟が多摩川の羽村から四谷大木戸まで引いた上水です。
塚の上に生い茂っていた笹(または竹)により、笹塚と呼ばれるようになったようです。
日本橋まであと3里。
幡ヶ谷駅を過ぎ、初台駅に向かっています。
平安時代の永保3年~寛治元年(1083~1087)に東北地方で戦われた後三年の役を終えて上洛の途にあった八幡太郎義家がこの辺りを通り、池で白旗を洗い、そばにあった松の木にかけて乾かした、という伝説があります。これは、源氏伝説の一つであり、実際のできごとであるかは不明ですが、この池が「旗洗池」と呼ばれるようになり、いつしか、「幡ヶ谷」という地名に転じたそうです。
国道20号線は日本橋まであと10kmとなりました。この先はほぼほぼ国道20号線をトレースしますので、甲州道中もあと10kmということになります。
左手には新国立劇場、地下には京王線初台駅があります。
代々木村と角筈村の境界に位置する天満宮です。樹齢300年を超える銀杏がありますが、箒を逆さにしているように見えることから「箒銀杏」と呼ばれています。
新宿駅を越える頃に夜が明けました。
あるきろく20190805で触れていますが、甲府市酒折で離れた青梅街道と5ヶ月半ぶりの再会です。
元和2年(1616年)に大木戸が設置されました。江戸市中においては西口、内藤新宿においては東口に当たります。
また、玉川上水はここまで開渠で流れ、水番所でもあったここからは江戸市中に向けて石樋や木樋などを地下に通し、通水しました。
外苑東通りとの交差点を過ぎた辺りから、この立て看板が目に付くようになりました。
じっくり目を通すと、今日新宿シティハーフマラソンがあり、交通規制がされるとのこと。この辺りは8:25から規制開始のようで、1時間早かったおかげで助かりました。
下に見える総武・中央線は外堀に位置します。
この外堀にかかる橋を渡ると、江戸城防御の城門となる四谷見附があります。
寛永13年(1636年)に長州萩藩主毛利秀就により城門石垣が作られ、寛永16年(1639年)に門が建築されました。高麗門と渡櫓門を互い違いに配置する桝形門でしたが、明治5年(1872年)に渡櫓門は撤廃され、多くの石垣も撤去されてしまいました。
「麹町」町名由来諸説
①町内に「小路」が多かった
②米や麦、大豆などの穀物を発酵させた「麹」をつくる家があった
③武蔵国府へ向かう「国府路」があった
いずれもそれっぽいですね。
横断歩道の真ん中からの撮影です。
おにぎり(国道看板)が半蔵門に浮いて見えます。
江戸城に危機が迫った際に、甲州道中を利用して、甲府経由で駿府に至るための門。
名前の由来は、服部半蔵の屋敷があったから、とか。
少し見づらいですが、階段を下りたところに井戸枠があります。
旱魃の際にも枯れることのない名水と言われ、多くの通行人が利用したそうです。
江戸時代当初は、熊本藩主加藤清正の屋敷でしたが、寛永9年(1632年)2代目当主忠広の時に没収されました。
その後、彦根藩藩主井伊家がこの土地を手に入れます。幕末の桜田門外の変の時にも、井伊直弼はこの屋敷から桜田門に向かっています。
歴史の教科書に必ず出てくる桜田門外の変。
先ほどの井伊家屋敷から、6分で着きましたが、信号待ちがなければ1~2分で着く距離です。そんなわずかな機会を、水戸浪士は狙っていた、ということになります。
日本橋まであと3kmです。
ここからは、国道1号線とともに進みます。
江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。
新幹線とJR線のガードの左側が有楽町。
ガードを越えた先が銀座。
ペコちゃんブランドのビルが目立ちます。
大正時代のキャッチコピーに「今日は帝劇、明日は三越」というのがありました。
今日は帝劇の前を通り、三越の足元にある日本橋を目指しています。
これだけ見通しがよいと、気持ちが良いですね。
ここって、東京マラソンのゴール地点?
橋の向こう側に和田倉門があります。
二万石から三万石の譜代大名が警備を勤めたようです。
東京駅を丸の内側から八重洲側に越えました。
東京駅日本橋口から出てすぐのところに、呉服橋跡があります。
眺める方向(高島屋方面)を真っ直ぐ進むと、京橋、銀座、新橋に至ります。
この交差点を左折すると…。
ついにゴールが目の前に迫りました。
①日本橋の創架:慶長8年(1603年)
②日本橋が幕府直轄の主要五街道の起点として定められる:慶長9年(1604年)
③現在の日本橋の架橋:明治44年(1911年)
日曜日の朝ということもあり、交通量が少なかったため、橋の中央に埋設されている道路元標を撮影することができました。
良い子はマネをしてはいけません!
佐藤栄作元総理大臣の揮毫と、先の解説版に書いてありました。
スタート地点であった下諏訪宿以来、中山道とも再会を果たしたことになります。
1月26日のあるきろくはここまで。
時間は3時間30分強、歩数は22,500歩、距離は15.5kmでした。
下諏訪を出発してから日本橋までの時間トータルは42時間弱。
台風の影響による通行止めや、すでに現存しない道もあり、もちろん100%のトレースはできませんでしたが、ガイド本などを頼りにできる限り忠実にあるいてきました。
とにもかくにも53里24町を完歩しました。
次はどこをあるこうかな…?
あるきろく20200113
2020年1月13日 あるきろく 甲州道中をあるく(7日目)
2020年のあるきろくは、中8日でさっそく2回目です。
前回終着点の高尾駅での写真を撮り忘れたので、
今回はすこし戻って、最後に写真を撮った駒木野宿&小仏関所からのスタートにします。
夜明け前の駒木野宿&小仏関所跡です。
高尾駅から20分弱歩きましたが、まだ真っ暗で、到着したころにようやく明かりがさしてきました。
高尾駅まで戻ってきました。
町田街道との交差点からしばらく、国道20号線と並行する旧道を進みます。
重厚の面持ちの家が並んでいました。
矢印看板の表裏で、街道の歴史が分かります。
旧甲州道中は慶長九年(1604年)の開通。
現甲州街道は昭和3年、ということなので1928年の開通です。
写真にうまく収められませんでしたが、道を挟むように「武蔵陵墓地参道」標柱もありました。
写真ではうまく表現できないのですが、背後を振り返ると雄大な山並みが見えました。
ちなみに右側の建物は高尾警察署です。
八王子市役所横山出張所の敷地にある、大きな樹木です。
これまでに見てきた一里塚と比較しても、まったくもってそれらしい塚ではありますが、これは一里塚ではありません。現存しませんが、このすぐ東に散田の一里塚が存在したそうです。
「右 高尾山」「左 真覚寺」と刻まれています。
ここはクランクになっていて、らしさ満開の「枡形」跡です。
甲州街道と陣馬街道の追分です。大きなX形の交差点です。
標柱の文字ですが、「右 あんげ道」とありますが、「あんげ」とは???
八王子千人同心は半士半農の武士集団で、そのもとは甲斐武田氏の家臣・小人頭と配下の小人(同心)にありますが、武田氏が滅びたのち、徳川家康が甲斐国を治めるようになると、甲州口の押さえとして江戸の西を守る役目を与えたようです。
この碑は、追分から陣馬街道に入ってすぐのところに立っています。
碑が立っている以外に宿場の面影はありませんが、マンションや商業ビルの合間に蔵が立っていたりします。
2019年5月26日にもこのアングルで撮影をしました。
桝形の一角にある一里塚です。
看板には日本橋から「12里」とありますが、前後の一里塚での表示などからも11里が正しいと思われます。
あるきろく20190519で浅川をあるきました。
この白く写る道を上流に向かって行きました。
石仏石塔群があります。
日野自動車の工場敷地のフェンスにかかる一里塚解説看板です。
読んでみると、実際の一里塚の位置は西に90mとありましたので、少しだけ八王子方面に戻ってみます。
日野台住宅入口交差点辺りが実際の一里塚の位置でしょうか。
日本橋まで10里。
日野台の一里塚から日野自動車の工場に沿って進み、工場敷地が途切れたところが日野大坂上。
名前の通り、そこから一気に坂を下り、ぶつかった中央本線の向こうにある地蔵だから「坂下地蔵」です。
甲州道中は中央本線に遮られてしまいましたので、日野駅近くまで迂回して線路の反対側にある坂下地蔵に辿り着きました。
日野宿は上宿、中宿、下宿と分かれていて、八王子側に位置するのが上宿だそうです。
年代ごとの甲州街道の変遷が記された案内板が、建物の壁面に張り付いていました。
今回は、旧道にあたる万願寺の一里塚、万願寺の渡船場を訪ねるつもりでいましたが、ガイド本にはその道のりが記されていなかったので、とても助かりました。
この先、しばらく緑色の先を追いかけることにします。
立派な建物が残る日野宿本陣跡です。
現存する建物は嘉永2年の大火によって消失の後、建設されたものですが、当主の佐藤彦五郎はこの大火をきっかけに自衛の必要を痛感し、天然理心流を学び、道場を開設します。
この道場に集ったのが近藤勇、沖田総司らであり、日野出身の土方歳三などを交え、ここから新選組の物語が始まります。
先の看板を頼りに旧甲州道中を進み、多摩都市モノレールの下で万願寺の一里塚に到達です。
日野宿本陣に始まり、日野市内のいたるところで新選組を模した印などが見受けられます。
日本橋まであと9里です。
万願寺渡船場跡から国立市方面を眺めています。
多摩川の渡しは甲州道中開設当時から順に、石田⇒万願寺⇒日野と移ったようです。
万願寺から日野に渡船場が移ったのは貞享元年(1684年)で、それ以後も作業渡しとして利用はされましたが、日野橋が架橋された大正15年(1926年)には廃止となりました。
貞享元年からの甲州道中における多摩川の渡し、日野渡船場です。すぐそばにかかる、モノレールも走る立日橋で多摩川を渡ります。
現在の甲州街道である国道20号線は、この日野橋で多摩川を越えます。立日橋とは数百メートルの距離です。昨年秋の台風に伴う増水により道路が陥没し、日野橋は通行止めになっています。分かりづらいかも知れませんが、よく見ると左から3本目の橋桁の辺り、道路がV字に歪んでいます。
多摩川の土手から新奥多摩街道に向かって下りると、石碑やオブジェ(?)が現れます。
新奥多摩街道を横断し、車通りのほとんどない道を進みます。地図を見ると、新しい幹線道路である新奥多摩街道を半円状に迂回するような感じであり、奥多摩街道と合流した後、日野橋交差点に至ります。
日野橋交差点から国道20号線に入り、数百メートル東に進んだのち、多摩川に向かって右折します。鬱蒼と茂る木々に向かって坂を下ると、そこには橋が架かっています。渡った先にこの石標が立っています。
ここは、万願寺の渡しの対面に位置します。
矢川駅や国立市役所への入口を過ぎ、緩やかな坂を上ると右手に現れるのが谷保天満宮です。
湯島、亀戸と並ぶ関東三天神の一つです。
甲州街道の左手に位置する谷保駅を越えた大学通りに、3年間通った高校があります。
右に曲がりながら坂を下りきると、そこにはガソリンスタンドがあります。
そのガソリンスタンドが、あるきろく20190526のスタート地点です。
右に分岐する多摩ニュータウン通りに入った先、某電機メーカーの工場敷地内に、初期の甲州道中の一里塚、本宿の一里塚があるそうです。
また、甲州道中が我が家に最も接近するのが、この辺りです。
本宿交番前の交差点から東に数百メートル進んだところで、Y字路が現れ、現甲州街道と離れます。旧道に入って程なくして、この立派な門があります。矢島本陣からの移築とのことですが、立派な門構えです。
府中宿に差し掛かりました。
この道の両脇も、徐々に宿場街らしくなってきました。
甲州街道の開通に伴い成り立った「番場宿」に属する村落です。
街道の南側には古刹高安寺があり、町場が街道の北側片側だけにできたことから「片町」となったようです。
幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数百三軒 街道の左右に簷を連ね」とあります。地名の起こりは、馬場の転訛や、番所があったことから、などの説があるそうです。
「現在の名称」での府中街道との交差点を一旦渡り、振り返っての写真では、正面に高札場、右手に問屋場跡があります。
府中高札場は甲州街道、川越街道及び相州街道が交差する(捉える時代によっては、甲州街道と鎌倉街道が交差する、という表現になるらしい…)府中宿の中心を占める場所でした。街道同士が鍵の手に交わっていて、「札の辻」「鍵屋の辻」と呼び親しまれていたそうです。
「札の辻」からすぐのところにある某紳士服専門店の前に立つ碑です。
番場宿の小名として名を残す集落であったようです。
それにしても、府中市に入ってから、立派な案内ばかりで驚く一方、これまでこの辺りを歩いていながらほとんど気にも留めなかった自分に反省です。
「~武蔵国の守り神~御鎮座壱千九百年」大國魂神社です。
成人の日はあまり関係なさそうですが、それでもかなり賑わっている様子でした。
大國魂神社から北へ延びるけやき並木の両側は、かつて馬場であり、馬場大門の名称もこれに由来しているとのこと。馬場は、徳川家康が大國魂神社に寄進したものと伝えられています。
丁字路に位置する商業ビルでトイレに行き、パンを購入し、外に出ると、そこにはこの看板がありました。
けやき並木の起源は、江戸時代よりはるか昔にあることを知ることができる看板です。
宿場のような名称ですが、六所宮(大國魂神社)の社に属する、農業を中心とする村落です。地名の起こりは、聖武天皇の時代に創立された国府八幡宮が鎮座していることによります。
京王線の東府中駅を過ぎたところからしばらくは、現「旧甲州街道」と江戸初期貞享年間以前の甲州古道(現「品川街道」)とを行ったり来たりして進みます。
常久の一里塚は、甲州古道沿いに残されています。
日本橋まであと7里です。
旧甲州街道に戻り、交差点を挟む形で染谷不動尊と観世音菩薩像があります。
染谷不動尊境内に、上染谷集落の説明碑がありました。
再び甲州古道に戻ります。道標には「右 品川 左 府中」との記載です。
またまた旧甲州街道に戻り、下染谷集落の碑を訪れました。
「染谷」の地名の起こりは、調布(てづくりぬの)を染めた所であった、また鎌倉時代に染殿があった、などと言われており、布を染めることに関係する地名のようです。
もともとは一つの集落あったものが、いつの頃からか「上染谷」「下染谷」と別れたようです。
仏堂の中には、石造瑠璃光薬師如来立像が安置されています。
この石像は、仙台藩士にして医師でもあった松前意仙により貞享年間に造立されたものです。松前意仙はこの像を完成させると、自ら墓穴を掘り、入定して成仏しました。その後築かれた塚が、行人塚として残されています。
府中市から調布市に入りました。
少しずつ都心に近づくなか、すごく立派で大きなお宅がありました。
塚木は榎であったようです。
隣接する駐車場の名前は、ここからとったのでしょうね。
日本橋まであと6里。
国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿の合宿により布田五ヶ宿と呼ばれる宿場です。本陣、脇本陣のない旅籠9軒の小宿であり、問屋場業務も各宿が月のうち数日ずつ交代で務めました。
祠に安置されている青面金剛像は寛政十年(1798年)の建立とのことです。
国道20号線に合流しました。
調布警察署を過ぎ、つつじが丘に向けて緩やかに上る途中に、地蔵尊が現れました。
写真には収めていませんが、この裏手は石材屋さんでした。この地蔵尊の管理はさすがにしていないか…。
更に坂を上った先にある地蔵です。
金子村に嫁いできた妙円という女性が、不幸にも失明します。
その後出家をし、村人のために念仏を唱え続けた妙円は文化二年(1805年)、浄財によりこの地に地蔵菩薩を建立します。
寛延元年(1748年)に京都の伏見稲荷に勧請し築かれた稲荷大明神とともに植えられたといわれるイチョウです。樹齢にして270年くらいでしょうか。この看板のある正面からは、竹に遮られてよく見えないため、少し移動した後全体が入る角度で撮影しました。
イチョウを過ぎたのち、一旦国道20号線から離れて旧道を進みます。国道20号線が緩やかに上っていく一方、旧道はしばらく平坦であったのち突然の急坂を駆け上がります。急坂を上り切り国道20号線と合流するところに立つ標です。
危うく気付かずに通り過ぎるところでした。
某CVSの建物に張り付くように設置されていました。
日本橋まであと5里。
徳川家所縁の尼寺跡です。左側に石塔が並んでいますが、これらの中に宝永四年(1707年)に建立された宝篋陀羅尼経之塔があります。
明治3年に内藤新宿を起点とした甲州街道に建立された新一里塚で、芝生に覆われた3メートル程度の塚の上にこの碑が建てられたそうです。碑には、内藤新宿から3里であることが記されています。
心に残る表現です。
烏山用水に架橋されていた橋のようです。
欄干を残していますが、暗渠となった用水路もそのままの形であり、かえって奇妙な光景でありました。
井の頭公園に向かう道との分岐であったようです。「是ヨリ一里半」と刻まれています。
ここで国道20号線に合流し、さらに環状8号線の高架をくぐります。
正面のビルの辺りに、上高井戸宿の本陣があったようですが、全くその痕跡はありません。
中央自動車道の下に、一里塚があったようです。
日本橋まであと4里。
中央自動車道の向こう、茶色のビル、ベージュ色のビルの辺りに本陣があったようですが、上高井戸宿同様、まったくもってその痕跡はありません。
1月13日のあるきろくは ここまで。
時間は8時間15分、歩数は56,000歩、距離は42kmでした。
見慣れた景色ではありましたが、それでもまだまだ知らないものが沢山あって、新鮮な気持ちで歩くことができました。
さて次回はついに日本橋まで到達します。
残すところあと4里弱です。
あるきろく20200104
2020年1月4日 あるきろく 甲州道中をあるく(6日目)
2019年はあっという間に過ぎ去り、新年を迎えました。
早速あるき初めです。
今回は鳥沢の一里塚からスタートです。
ちょうど日の出の頃で、きれいな宿場町の風景がありました。
国道20号線から離れ、犬目宿へ向かう山間の道に入ります。
遠くから見た時には、立っている人形は本当の人間かと思いました。
かなりシュールな絵でしたので、撮影しました。
きれいに富士山が眺められました。
大月市から上野原市に入りました。
今日は、ここまでも舗装された県道と舗装されていない道を行った入り来たりで歩いてきました。
ここからは石畳の道です。
今日、初めての一里塚です。鳥沢の一里塚から、40分ほどでの到着です。
ここはしっかりとした塚が残っていて、遠くからでもすぐに分かりました。
日本橋まであと21里です。
目にも鮮やかな鳥居がありました。
反対側(犬目宿側)から3人組のハイカーが鳥居をくぐっていきました。
また上野原市では、このような史跡そばには、立派な史跡案内図を立ててくれています。
本日最初の宿場、犬目宿です。
きれいな看板がお出迎えしてくれました。
先程の看板を過ぎ、左手に曲がるとこの街並みが目に入りました。
犬目宿の脇本陣跡です。
こちらにも、明治天皇の足跡が残されていました。
立派な石碑と丁寧な案内板がありました。
長野県内、台ヶ原宿周辺、甲州市大和町に匹敵する(を超える)充実具合です。
高台から眺める景色は絶景でした。
正面の看板には「座頭転がし」と書いてあります。
先導者の声を頼りに進んできた盲人の方達が、この屈曲した峠道で、声の方向に進んだところ深い谷に落ちてしまったことから名付けられたようです。
左側の段上には、天王様として石祠が祭られています。
とにもかくにも立派な鳥居です。
談合坂SAが見えました。
江戸時代以前のお話でした。
この一里塚も、それらしい佇まいで迎えてくれました。
恋塚の一里塚から44分。
日本橋まであと20里です。
上野原市に入ってからは、このようにポイント、ポイントには必ず看板があり、地図無しでも歩けます。
県道を離れ旧道散策となります。
今日は何度も、中央自動車道を縫うように歩いています。
この手前でも中央自動車道を跨ぎ、そして現れた丁字路でしたが、ここでも案内看板があり、迷わずにルート選択ができます。
野田尻宿に入りました。
野田尻宿にも丁寧な案内看板と明治天皇の足跡がありました。
明治天皇の碑のあるところが、本陣跡のようです。
武田信玄の時代に築かれた山城の郭や尾根を切断する堀の跡が見つかったり、また甲州道中の跡も残っていたようです。
なお芭蕉の句がありますが、これは芭蕉が立ち寄った際に詠んだ、というわけではないようです。
樹齢300年以上の立派な杉です。
地名の由来となったクヌギは、枯れて現存しないようです。
荻野の一里塚から39分で到着しました。
実際の一里塚はこの地でなく、少し江戸寄りにある切通し辺りに塚があったようです。
日本橋まであと19里です。
この先に鶴川宿があります。
蛇行しながら、坂道を下っていきます。
鶴川宿を撮影しました。
コンパクトですが、重厚な面持ちです。
碑や案内板が本当に充実しています。
上野原の市街地に入りました。
向こうの小学校に見える大きなケヤキは、樹齢800年を誇るそうです。
大門が残っていますが、その他には当時を偲ばせるものはありません。
大椚の一里塚から54分かかって到着しました。
疱瘡神社内に一里塚があるのですが、なんとも微妙な状態です。
確かに、塚として残っているようには思えるのですが…。
武田氏が設置した「甲斐二十四関」の一つであり、江戸時代になると「境川口留番所」と呼ばれたそうです。
もうすぐ、甲斐の国から相模の国に入ります。
境沢(境川)を越え、相模の国に入りました。
相模の国に入って、初めての標柱です。
ここから、再び国道を離れて古道散策となります。
先程の標柱から坂を上ること1分。
合流する道の脇に倒れた標柱がありました。
国道と再合流するポイントに、倒れた標柱がありました。
前年の台風の影響でしょうか?
関野宿の本陣跡に到着です。
相模国から甲斐国に入る直前の宿場ということで、重要な位置づけにあったようですが、今ではその面影はありません。
明治22年、その後二度の大火で焼失してしまったようです。
あずさ8号と思われます。
軽やかに駆け抜けていきました。
榎の大木が塚木であるようです。
現在は国道の方が位置が高く、塚らしさはありませんでしたが、古はどうだったのでしょう。
日本橋まであと17里です。
本陣は明治29年の大火で焼失したとのこと。
明治天皇の足跡が「聖蹟」という表記になりました。
旅籠ふじや跡は現在郷土資料館となっています。
ここでまた国道を離れ、高台に向かって進んでいきます。
椚戸旧道の下諏訪口になります。
ここからは、こまめに標柱が現れます。
椚戸旧道の江戸口となります。
舗装路には出ますが、引き続き心寂しい道を進みます。
ここまでの標柱が古びていたり、また倒れていたりしましたが、ここで急にカラフルなものが出現しました。
次に現れる標柱は…?
この標柱もカラフルでした。
この標柱から先、江戸方面には3本の道が走っていて、どれを進めば…と若干立ち止まりました。
薄いアスファルトで舗装された道を進みます。
荒れ果てた草木に行く先を阻まれ、少し高い位置にあった土道から舗装路がどこにあるか確認しています。
そしてこの先で、本日最大の危機を迎えます。
先の写真から50m程度のところに、与瀬の一里塚。
しかし、この50m程度に10分近くの時間がかかりました。
実は先の写真を撮影の後、高い位置にある土道から舗装路を見つけますが、藪に囲まれており走破するのが難しいと感じたため、土道を少し進み、舗装路が再び現れたところで降りようと画策しました。
高さにして3m程度でしょうか。
草木に足を掛けながら斜面を降りようとしましたが、足を踏み外し、転げ落ちてしまいました。
若干ではありますが、血を見る事態を招いてしまい、回復までの時間がかかった次第。
日本橋まで16里…。
与瀬の一里塚を越えたその先もまた苦難の道でした。
相模湖に注ぐ沢にかかる貝沢橋を渡るのですが、この橋が直径15cmほどの丸太?
丸太の具合を見る限り、最近ただ渡しただけと思われ、構造物ではないです。
もちろんそんな「橋」を渡れるはずもなく、岩から岩へと飛び移り、対岸に渡りました。
それを越えての與瀬神社です。
建物は近代のものと思われますが、築山もある広い敷地に圧倒されました。
相模湖駅を越え、ここで国道を離れます。
ここまで来ると、見覚えのある景色となります。
えんどう坂と階段を上ってきました。
中央自動車道の相模湖東IC目の前です。
中央自動車道をくぐり、国道20号線を横断して進みます。
再度国道に合流すると、そこは小原宿。
神奈川県の指定重要文化財となっているそうです。
神奈川県内では、当時の本陣で唯一現存するものとのことです。
大垂水峠に向かう国道20号線とはここでお別れ。
笹子峠と並ぶ難関、小仏峠越えに挑みます。
台風の爪痕です。
一里塚跡の説明看板も、無残な状態でした。
塚そのものは、上を走る中央自動車道敷設時に切り崩されたそうです。
日本橋まであと15里です。
足元に標柱や馬頭観音がありました。
ここまでは、急坂でありながらも舗装路でしたが、本格的な山道に入ります。
本日すでに30km以上を歩き、またアップダウンのある道のりであったため、結構足腰に来ています。
山道も最後の1kmは休み休み登りました。
後は下るだけです。
明治天皇の移動は乗馬?籠?それとも徒歩?
ここでもお休みをされたとのことです。
ここにきて通行止めですか!
どうする…。
①高尾山方面に進む
②景信山経由で小仏宿に向かう
結果としては②を選択しました。
5月2日の「藤野駅~陣馬山~景信山~高尾山」縦走時にもこの眺望を楽しみましたが、本当に絶景です。
ただし、小仏峠以後は下るだけと思っていたところでの、更なる山登りを強いられ、
脚には痛みを生じるわ、あたまもボーっとしてくるわ、で辛かったです。
甲州道中であれば沢沿いに歩き20分程度の距離だったはずですが、景信山経由により小仏峠から70分かかりました。
※景信山山頂の茶屋で15分程度休憩もしましたが…。
景信山から下山した皆さんは、小仏バス停からバスに乗車されました。
歩いているのは自分ひとり。
峠越えをして最初の宿場は小仏宿ですが、見るべきものがなく通過してきました。
そして、次がここ駒木野宿です。
碑だけが存在し、敷地は公園になっています。
「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まったそうです。
開門時間は午前6時~午後6時。
実際には宿と関所が同じロケーションにあった様子。
駒木野宿内には、現存しませんが一里塚もあったとのことです。
日本橋まで13里です。
この後、高尾駅北口まで歩き、本日の行程を終了しました。
高尾駅到着時に写真を撮り忘れたため、駒木野宿・小仏関所の写真でおしまいです。
ということで1月4日のあるきろくはここまで。
時間は8時間50分、歩数は56,100歩、距離は42.2kmでした。
日本橋までの残りの距離は、頑張れば1日でも歩ける距離となりました。
また、スタート地点まで、ゴール地点からの行き来の時間を短くできます。
現実的にはあと2日、かな。