あるきろく20191214
2019年12月14日 あるきろく 甲州道中をあるく(5日目)
前回笹子峠を越えたのは、まだ真夏の8月18日でした。
その後、人生初の入院をしてお休みをすることになりました。
回復を待つうちに、気が付けばいつの間にか冬になっていました。
さて、本日は笹子駅からのスタートです。
すでに10時24分です。
本当は9時には出発したいと思っていましたが、家を出るのが遅れ、電車の接続も悪くこの時間に…。
何はともあれ、4カ月ぶりのスタートです。
前回も阿弥陀堂跡を訪ねる際に通りましたが、大きな蔵元です。
天気予報では、暖かくなるとのことでしたが9度でした。
苦行の8月5日と比べると、30度近く気温が異なります。
笹子川と中央本線と甲州道中が絡み合いながら大月市街地方面に向けて進みます。
ところどころ、旧道を近現代の構造物により遮ります。
しばらく車通りのない道を進みます。
白野の一里塚です。
日本橋から26里目とのことです。
笹子峠の手前、甲州市では標柱がきれいに管理されていましたが、この標柱は読めなくはないものの、かすれた文字で存在感が薄いものでした。
親鸞聖人が船形の石の上に座って説法を行ったそうですが、その石は水害で流れてしまい、なくなってしまったようです。
この奥、少し上がったところに首塚があるそうですが、訪れる勇気はありませんでした。
下諏訪からの順では、黒野田、阿弥陀街道、白野の次の宿場となる中初狩宿です。
ここにも明治天皇の足跡が残っていました。
「山賊のおとがいとずる葎かな」
笹子峠の手前にも句がありましたが、松尾芭蕉の実姉が初狩に住んでいたことも、甲州道中に松尾芭蕉の句碑がたくさん存在する理由でしょうか?
笹子駅前にもありましたが、この辺りのポイントには「山梨県東部JR八駅トレッキング推進協議会」の立てた標識がきれいに管理されています。
見えている碑には、小説家の「山本周五郎生誕之地」とありました。
あるきはじめのころなら、おそらく左の道に進んでしまうところですが、さすがにもう慣れてきたのか、真っ直ぐの道が甲州道中であることに気が付きました。
「今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里」という歌碑です。
1806年に建てられたそうです。
この先の踏切を渡ると、ツアーでしょうか、20人くらいの集団とすれ違いました。
先程の踏切を渡った後、しばらく線路脇の心寂しい砂利道を進みます。
この先も山側に道は続くのですが、先の先で、線路と川に遮られるようです。
したがって、ここで橋を渡り、国道に移ります。
しばらくは行けそうですが、ガイド本では数km行った先で行き止まり。
ここで引き返します。
まだ道は続いているようですが、仕方がありません。
国道20号を進むことにします。
なお、下初狩宿で一旦離れ、ここで戻ってくるまでに、国道20号の日本橋からの距離表示が100kmを切っていました。
以前中央本線の中から見た時にも不思議に思いましたが、大月警察署は市街地から離れた場所にあります。なんでだろう?
ちなみにここの気温は13度。
実はだいぶ前からパーカーを脱ぎ、加圧ロングTシャツと半そでTシャツの重ね着のみで歩いています。
立派な建物と誰もが分かるような立派な石碑でお出迎えしてくれました。
以前の建物は1835年に焼失し、この建物は再建されたもの(国重要文化財)のようです。
復元されたとのことですが、久しぶりに塚木のある一里塚です。
日本橋から24里目とのことです。
また、一里塚だけでなく、松尾芭蕉の句碑や庚申塔、道祖伸、馬頭観音、そして大月市による解説版などいろいろと並んでいました。しかし、解説版の文字が全く読めないほどに消えていて残念でした。
宿場の痕跡はなく、「明治天皇御召喚所」の碑のみ鎮座しておりました。
石碑をよく眺めたのですが、残念ながら字が読み取れませんでした。
ガイド本によると「右甲州道中 左ふじミち」と書いてあるそうです。
富士山道追分道標からここまでは、交通量の多い通りを離れ、大月駅付近の商店街などを抜けて、ここに至ります。
白野の一里塚と同じ、木柱による一里塚跡の標柱でした。
ここも文字がきれいには読み取れない状態でした。
日本橋から23里目とのことです。
写真では見たことがありましたが、現物を見たのは初めて。
橋脚のない、古い橋となると渡るにも勇気がいるところですが、実際には昭和59年に復元されたものとのことで、安心して渡らせていただきました。
7月12日に歩いた蔦木宿と似た雰囲気がありました。
ここにも当然の如く明治天皇の痕跡がありました。
ここの標柱は、かろうじて字が読める状態でした。
日本橋から22里目です。
この一里塚は、中央本線鳥沢駅からすぐの場所にありますが、この先しばらく甲州道中は中央本線から離れます。再び接近するのは、20km弱先の関野宿・藤野駅辺りです。
今日は久しぶりということもあり、この時点でだいぶ足腰に来ています。
また、この先藤野駅までどれくらい時間がかかるかを考えましたが、3時間では難しく、時期的にも暗くなってしまうだろう、とここ上鳥沢の一里塚で終わりにすることにしました。
体力の問題もありますが、当初予定していた笹子駅9時出発であれば、日のあるうちに藤野駅まで行けたかな、と反省しました。
ということで、本日歩いた時間は3時間半弱、距離は18.5km、24,700歩の行程でした。
次回は、上鳥沢の一里塚を出発し、与瀬宿(相模湖駅)を目標としたいと思います。
あるきろく20190818
2019年8月18日 あるきろく 甲州道中をあるく(4日目)
公共交通機関の計画運休を招いた大きな台風も過ぎ去った、日曜日。
ついに、甲州道中で最大の難関、笹子越えに挑みます。
山道を歩くことを想定して、今回はトレッキングシューズを履いていこう、と玄関を出たところで、何と靴底が剥がれ落ちるアクシデント発生‼︎
いつ買ったかはうろ覚えですが、高校生の頃には履いていたから、30年くらいは経つのかなぁ…。
そんなこんなで、いつものスニーカーでスタートです。
前回のゴール地点、鶴瀬関所跡を出発です。
今回は、難関の笹子越えはしますが予定距離は短いので、スタートも遅めです。
甲州道中から若干離れましたが、今回こそは、史跡を丹念に拾っていこうと寄り道しました。
国道20号線から笹子峠へ向かう県道に入ります。
写真では左が県道です。
甲州道中はこの右側の上り坂を進みます。
甲州市でも、大和町に入って以降、標柱が立派です。
いかにも、な雰囲気の坂道を上っていきます。
日差しはありますが、前回ほどの暑さではありません。
頑張って進みましょう。
巡礼僧が追い剥ぎに遭ったそうです。
それを村人が供養するために、と造ったそうです。
橋桁に手が届くような距離感です。
日本橋もそうですが、橋がない景色を見てみたいものです。
曲がりくねった坂道を右に曲がったところで、この表札に出会いました。
急坂の途中でもあり、まだ宿場の雰囲気はありません。
坂道も緩やかになり、 道中を挟み込むように建物が密集してきました。
駒飼宿の本陣跡に到着です。
下諏訪から数えると、鶴瀬宿の次の宿場です(鶴瀬宿と合宿)。
そしてここにも、明治天皇の足跡がございました。
写真には入れませんでしたが、暑い中草刈りをするおじさんがいらっしゃいました。
「秣負う人を栞の夏野哉」…。
『奥の細道』で詠んだ句のようです。
秣(まぐさ)とは馬草であって、馬の餌だそうです。
「栞(しおり)」は「枝折」とも書くようですが、自分の歩いた跡として枝を折って置いていく、ことからきているようです。つまり、道標ということのようです。
それを踏まえて、この句を詠んでみましょう。
これまでにも悩まされた害獣ネットです。
通電しているかも、とゴム手袋を用意してくるつもりでしたが、持参せず。
恐る恐るゲートに触れてみると…大丈夫でした。
解錠して進むことにします。
ガイド本では「通行不可」とされている、荒れ果てた道です。
この先、倒木もあり、道全体が沢のように水にあふれていたり、で苦労しました。
駒飼の一里塚です。
日本橋から28里との記載がありますが、29番目の一里塚である、という説が有力のようです。
とにもかくにも、これに出会うために、あのゲートを越えて進んできました。
このまま先に、本当の旧道跡を歩いてみたいと思いましたが、右を流れる沢の勢いもすごく、またここに至るまでにもスニーカーで歩くにはギリギリであったことから、泣く泣く断念し、県道に戻って歩くことにします。
昭和47年まではこの道が国道20号線として、甲府盆地と東京方面とを結んでいました。
九十九折りの県道では笹子峠まで6.2km。
後ほど、再び旧道の山道も歩きますが、その場合には何km歩くのかな?
駒飼の一里塚の先を進む旧道と、この桃の木茶屋跡で合流します。
ここに立って旧道方向を見ると、何となく歩けそうな気もするのですが…。
県道から離れ、旧道である山道に入っていきます。
旧道も入口付近は、きれいに整備され、歩きやすい道でした。
歩みを進めるうちに、気が付けば、道は整備されているわけでもなく、木立の間隔と踏み固められた地面を参考に進むようになります。
このように枝分かれする場所では、標識が不可欠です。
幅がありましたので、渡る前には何とも思っていませんでしたが、結構な朽ち具合で冷や汗ものでした。
進むべき道が分からず、そこにあった一等水準点を眺め、気持ちを落ち着けているところです。
何となくながらもこっちだろうか?と考えている方向を写しています。
幅は狭いものの、木の並びと踏み固められた地面を見て、一安心。
一旦、山道から林道に出ます。
入口こそ階段になっていますが、その奥はまた険しそうな山道です。
桃の木茶屋跡から30分で、甘酒茶屋跡に到着です。
これだけの険しい道程では、やはり甘い物、飲み物が必要になりますね。
ガードレールの下に、笹子峠への道標が見えます。
笹子隧道が見えます。
昭和11年に起工し、昭和13年に開通した笹子隧道。
全長239mですので、歩いて通れば3分程度の距離です。
せっかくの機会ではありますが、もちろん今日は通りません。
笹子峠はすぐそこです。
山道に戻ります。
旧道から笹子隧道を見下ろします。
やはり道はあるようで、ないような。
でも、もう少しで峠に到達です。
頑張りましょう。
笹子峠に到着しました。
標高1,096mとのことです。
さっきの一等水準点からでも163m上ったことになります。
来た道を振り返ると、切通しの形の峠道であることがよく分かります。
笹子峠から、崖を転げ落ちるようにしながら、ここに到達しました。
「クマ出没注意必要」とありますが、おかげさまで大丈夫でした。
ちなみに甲州市側には「ハチに注意」の看板が倒れていました。
おにぎりを食べながら、県道を数百m進みました。
この分岐で、汗まみれのTシャツを着替えます。
そしてまた山の中へと入っていきます。
尾根から沢沿いの谷に向かって、木立のトンネルを進みます。
急な下り坂 が続き、ここで2回ほど滑ってしまいました。
トレッキングシューズが必要でした…。
しばらく目印もなく、何となくこっちだろう、で進んでいます。
足元の踏み固め具合だけを頼りに進んだところ、沢と沢の合流地点に到達しました。
どうにもこうにも先に進めない…。
数百m戻ったところ、沢を跨ぐ小橋を発見。
それを渡ると、矢立の杉に辿り着けました。
矢立の杉はあまりにも立派で大きく、フレームには収まりません。
また、歌手の杉良太郎さんが歌われる「矢立の杉」の歌碑が設置されており、
その傍らにはゼンマイ式で歌が流れるスピーカーがありました。
峠を挟み、多くの茶屋があります。
ここにも明治天皇御野立所跡がありました。
また、この前を通る道はいかにも街道然とした、そんな風情を感じました。
いったん県道に出ます。
矢立の杉がこの辺りの大きな観光資源であることがよく分かります。
左手に沢の音を聞きながら、杉林の中を進みます。
やっと山道から抜けることができました。
黒野田宿に向かいます。
臨済宗のお寺さんの門を挟んで、一里塚の標柱が立っています。
標柱には江戸より25里とありますが、27里目という説が有力なようです。
立派な本陣門が現存しています。
その脇には、明治天皇行在所跡の標柱があります。
天保の大飢饉による窮乏を心願したもの、だそうです。
笹子駅辺りにあったであろう阿弥陀街道宿の痕跡は見当たりませんでした。
そこで、笹子駅を通り過ぎ、甲州道中を少し離れ、阿弥陀街道宿の地名の由来となった「阿弥陀堂」の跡を訪問しました。
8月18日のあるきろくはここまで。
時間は約3時間半、歩数は約19,700歩、距離は15km強でした。
最難関の笹子越えを終え、また道中のおよそ半分まで来ました。
日本橋への到達はいつになるでしょうか。
【番外編】
笹子駅といえば、昔はスイッチバックであった、急勾配上にある駅です。
あるきろく20190805
2019年8月5日 あるきろく 甲州道中をあるく(3日目)
長かった梅雨も明け、毎日暑い日が続きます。
今回は、韮崎宿から鶴瀬宿を目標に、甲州道中をあるきます。
ただし、甲府盆地は暑い!前日は勝沼で37度に達したとか…。
では、スタートです。
ここからはしばらく東南東方向にまっすぐ進みます。
塩川を渡り、甲斐市に入ったところで、県道から旧道に入ります。
それぞれの家の塀や庭の広さに、雰囲気が漂っています。
甲州道中から200m程度外れた位置にありましたが、今回はできるだけ多くの史跡を拾い集めていこうと思っていました…この時点では。
「昼見れば首すじ赤き蛍哉」だそうです。
この時点では、足取りも軽く、いろいろ撮影しながらあるきます。
写真にはうまく収められませんでしたが、県道の両側に同じような塀や壁造りの建物が並んでいます。
戦国時代のお話でした。
今回最初の難関ポイントでした。
国道20号線と、ここまで歩いてきた県道がX字で交わり、またそこに細い道が加わっていて、どの道が正しいのかとても不安でした。
そんな中、振り返ってみると、こんな優しい案内がありました。
(矢印とは反対方向にあるいています)
日差しが強く、字がはっきりと見えません。
日差しが強く、いつもとはまるで別人のように、水分補給を行っています。
いくつかのお地蔵さんと、道標がありましたが、近寄ることはできませんでした。
管理状態も、あまりにも酷いなぁ…と思うところです。
今回は、この辺りが気持ち的にもMAXの状態でした。
盆地に向かって下りが続き、足取りは軽やか。
その向こうには富士山が見える。
街路樹があったりして、涼しい時間も得られました。
今回もまた発見しました、明治天皇の足跡。
ここでも優しい心遣い。
でも、もう少し大きく、そしてちゃんとした造作物であってもいいのにね…。
甲府市に入りました。
旧道を見逃さぬよう、できるだけ甲州道中のガイド本とスマホを手に持って歩くようにしていますが、これだけ暑いと、汗でブックカバーも破れます。
したがって、分かりやすい目印を決めて、そこまでは本やスマホをリュックにしまって歩くようにしました。
竜王から甲府に入るまでの、とりあえずの目印を「甲州ほうとう小作」として、「小作、小作、…」とつぶやきながら歩いているうち、頭の中ではサブちゃんの与作に変調してしまったほどのトランス状態。
甲府市の中心部に入ってきました。
甲府柳町宿を示す碑などを見つけることはできませんでした。
ここまでの宿場の中でも、教来石宿を上回る「何もなさ」です。
この後、暑さ凌ぎで某デパートにお邪魔し、日に当たっていた部分を水で冷やし、日焼け止めクリームを厚めに塗りなおしました。
ここでの30分余りの休息が、あとで影響するとは思いもせず…。
真っ黒で何も見えない写真となりました。
明治5年創刊の峡中新聞(現 山梨日日新聞)は現存最古の地方紙、とのこと。
実は、今回もっとも楽しみにしていたポイントです。
ですが、それらしい表記もなく、拍子抜けしてしまいました。
新宿追分で再び青梅街道と出会えるのは、いつの日だろうか?
石和宿の入口(江戸側からだと出口)に当たるのでしょうか。
なお、この手前でも、暑さに耐えられずCVSでアイスコーヒーと某氷菓を購入し、しばし休息。
氷菓はすぐには食べず、タオルで包んで、首に巻いて歩くことにしました。
石和宿に到着です。
下諏訪からでは、甲府柳町宿の次の宿場となります。
このフェンス、ない方がよいと思うのは、私だけではないはずです。
国道から一段下がったところを旧道は進みます。
風情ある松並木、と思いましたが、植樹は、笛吹川の大氾濫があった後の明治40年であったそう。
石和宿本陣跡からこのあたりまで、小さな交差点があるたび、「☜石和温泉駅」の看板を目にし、とても悩んでしまいました。
ここを過ぎると、しばらく甲州道中と中央本線は離れ離れになります。
悩みながら、当初の予定通り、甲州道中を進むことにしました。
観光でこの辺りを訪れるのであれば、あの斜面の方に行くんだろうなぁ…。
ほったらかし温泉にものんびりとつかりたいなぁ…。
とか思いながら、この辺りからは本当に「苦行」という感覚に陥っていきます。
可愛らしいネーミングですが、「苦行」中の私にはあまり響きませんでした。
甲州道中は左手の土手道を進みます。
また、ありました。
道を挟んでCVSがありましたので、再びアイスコーヒーと某氷菓を購入しました。
アイスコーヒーを飲み終わった後の氷を、何のためらいもなく頭に落としての道中リスタートでございました。
この数本の標識を見るうちに、甲州道中は緩やかな坂道になってきました。
本当に緩やかな坂道で、普段なら歩くだけで体力を消費するなど考えられません。
しかしながら、今回は、ここから本当にきつくてきつくて参りました。
道端は果樹園ばかりで、宿場のような雰囲気も全くなく、突然この標識が目に入りました。
下諏訪から数えると、石和の次の宿場となります。
ここから勝沼宿、そして横吹の一里塚辺りまでが、今回のピークでした。
体力的にも本当に厳しく、ところどころで膝に手を置き立ち止まる。
日陰になっている、腰かけられる段差を見つけてはへたり込む。
高校の部活以来です、これだけハードに感じたのは。
体力面でだいぶ弱っており、また電車の時刻も気になり始め、精神的にもグダグダな感じになってしまいました。
先の道路標識の写真の地点から、ここまで1km程度です。
普段であれば10分~15分で歩ける距離ですが、なんと30分もかかりました。
止まって、座ってがあってではありますが、いま改めて、こんなにかかっていたことに驚いています。
勝沼宿本陣跡に到着です。
下諏訪から数えると、栗原宿の次となります。
おざなりな写真で恐縮です。
下に降りて草をかき分ければよいのでしょうが、その気力がありませんでしたので、国道上から失礼いたしました。
今現在、塚木は無いようです。
横吹の一里塚を過ぎると、高台を走る国道から逸れて下っていく道があります。
これが横吹の古道で、若干の民家はありながらも、途中からは鬱蒼とした茂みの中を進む感じです。
上を走る国道をくぐったのち、舗装されていない山道を登ることになります。
木々が写る写真の土の部分が上ってきた道です。
木々の隙間(右側)に、見えますでしょうか。
オレンジ色のセンターライン。
これが先程くぐった国道です。
いっぺんに高いところまで、葉っぱやクモの巣をかき分けながら上ってきました。
なんとか、本日の目的地とした鶴瀬宿に到着しました。
江戸からは31番目の宿場なんですね。
江戸へは、まだ30里27丁…120kmくらい残っているのか!
下諏訪からは23里くらい歩いたことになります。
8月5日のあるきろくはここまで。
時間にして約7時間30分、歩数は約47,500歩、距離は約38kmでした。
次回はこの関所からスタートすることにします。
いよいよ最難関の笹子越えです。
これまでの経験者の皆さんのブログなどを参考にしながら、シミュレーションをしておきます。
駒飼の一里塚を見るためには、ゴム手袋が必要ですか???
あるきろく20190712
2019年7月12日 あるきろく 甲州道中をあるく(2日目)
前回6月16日は、最後に甲州道中を外れてしまう失態を犯してしまいました。
今回のスタートは、気付かずに通り過ぎてしまったY字路から、となります。
地図や甲州道中のガイド本を頼りに分岐を探しましたが、よく注意していないと、通り過ぎてしまいますね。
今回は、間違いなく進みます。
ずっとなだらかに上っていきます。
この辺り(右側)は、セイコーエプソンの施設やグラウンドが続きます。
この日は、パラパラ雨の降る中のスタート。
路面も前日からの雨で濡れています。
立派な大木が見えてきました。
塚木ですね。
6月16日と同じアングルで撮ります。
標高917m。
前回の失敗を清算して、では改めてスタートです。
雨が上がり、雲も切れてきました。
先の茂みに向かって進みます。
甲州道中は本来左手の道であったようですが、三菱マテリアルさんの私有地になっており、通行できないとのこと。
一応、左手に行くだけ行ってみます。
ポツンと一軒家!があらわれたその先は、やはり行き止まりでした。
先程のY字路を右に進み、砂利道を歩きます。
三菱マテリアルさんの敷地内を覗くと、一面のソーラーパネルでした。
迂回路を通ってきましたが、ここから甲州道中に戻ります。
ご丁寧に道標が立っていました。
この写真は、江戸側から写しています。
塚平の一里塚、と言うようです。
北側の塚木が残っていました。
この一里は、44分かかりました。
写真では分かりづらいですが、幹が本当に赤い、赤松が並んでいました。
樹齢が200年以上の風除林とのことです。
江戸から見て、Y字路に立つ道標です。
右に進むと、八ヶ岳方面です。
我が家のすぐそばにも、明治天皇が巡幸した際の碑が立っていますが、甲州道中でもお会いしました…というか、この後、頻出します。
写真では奥に見える甲州道中から、若干離れた位置にありました。
平岡の一里塚、というようです。
耕地整理の際に、ここに立てられたようです。
ここまでの一里は、43分。いい感じに歩けています。
平岡の一里塚からここに至るまでが、ものすごく大変でした。
ガイド本に、害獣ネットがある旨、そして「不安な場合には国道20号を迂回する」と記載がありましたが、「不安な場合には~」とのことなので、大丈夫だろうと高を括って進んだら、痛い目に遭いました。
不安も何も、万全な害獣ネット故、とてもとても通れる代物ではありません。
高を括って数百m進んで、ダメと分かって戻っての迂回進行、ダメージ大。
蔦木宿です。
下諏訪から数えると、金沢宿の次の宿場になります。
宿場町の風情が残る街並みです。
それぞれの建物には、当時の(?)屋号の表札(蔦木宿〇〇屋)が下がっていました。
また、ここでも、明治天皇の足跡が窺い知れました。
道路改良により、若干の移動をしたようですが、この辺りが江戸側から蔦木宿への入口に当たるようです。
信濃国と甲斐国の境にある橋で「国界橋」。
ここもまた、厳重な害獣ネットで防御されており、渡れません。
国道20号線で迂回することにします。
通せんぼの国界橋を遠くに眺めます。
本来の甲州道中は、あの橋を渡ったのち、左手の樹木の下を歩くようです。
迂回はしましたが、ここで甲斐国に入ります。
本来の甲州道中は右手から現れ、そのまま左に見える道に入っていきます。
国道20号線はすぐそばを走っていますが、如何にも旧道然の甲州道中です。
西番所は徳川幕府が設置した番所で「女改め」の取締りが厳しかったそうです。
山口関所は、信州口を見張った国境の口留関所です。
また現れました、明治天皇の足跡。
写真は撮りませんでしたが、少し手前にも「御膳水跡碑」がありました。
田植えを見て、碑が建つ。どんな田んぼなのかというと…
眼下に広がり、確かに絶景ではあります。
教来石宿の本陣跡であり、明治天皇が休憩をした場所でもあります。
教来石宿は、下諏訪から数えると蔦木宿の次の宿場です。
蔦木宿と比べると、それらしい雰囲気があまり残っていません。
今日の甲州道中あるきも、3時間20分ほど経ちました。
ここで初めてコンビニを見ました。
いったん国道20号線に合流します。
歩いてきた道を振り返ります。
舗装を見ると、どちらが古くからある道か、良く分かります。
右手に新しい建物で営業していますが、古い建物も残しています。
情緒たっぷりの建物です。
久しぶりの一里塚です。
45番目:山口の一里塚、44番目:鳥原の一里塚は、塚木や石碑もありませんでした。
ここも、宿場内ということで、塚木は無いようです。
右手の金精軒は、元祖「信玄餅」の老舗とのことです。
酒蔵のようです。
またまた、明治天皇の足跡が現れました。
それにしても立派な建物です。
台ヶ原宿は、下諏訪から数えると、教来石宿の次となります。
蔦木宿、教来石宿からは、続けて一里強ほどの間隔で設けられています。
台ヶ原宿は、当時の様子も残しつつ、今の生活も垣間見える、素敵な街並みでした。
ここでまた国道20号線と出会います。
しかし、横断して、すぐに旧道散策となります。
国道20号線を横断歩道で渡り、すぐ右手の「古道」へと入っていきます。
立派な石標が立っていました。
長野県内は、各自治体(主に教育委員会)が、甲州道中の歴史保存をしている印象。
山梨県に入ると、自治体より小単位の地区単位で整備をしているように感じました。
台ヶ原地区は、各所に、それも立派な案内などが設置されていました。
荒々しく流れています。
碑のオンパレードです。
下諏訪からではあまり恩恵は受けませんが、江戸から来る方には分かりやすいです。
何せ、古道・旧道はどこから始まっているのか、どこまで続くのか、どこで終わっているのか、分かりづらいですから。
ここで現れるのが、甲府起点の一里塚。
甲府から七里の距離だそうです。
台ヶ原こそありましたが、江戸起点の一里塚跡はこの前後に見当たりません。
続けて現れました。
甲府から六里目の一里塚。
やはり江戸起点の一里塚には出会えません。
ちなみにこの一里は43分。ペースとしては良い感じ。
深さはあまり無いようですが、広く、そしてすごい勢いで流れています。
向かいの岩肌がまた風情を醸し出しています。
旧道然とした、重みのある素晴らしい街並みです。
左側には、茅葺の門が見えます。
武田家に仕えた名家らしいです。
先程のポイントから、5分ほど歩くと、突然家屋の雰囲気が変わりました。
普通の住宅地、に戻ってしまいました。
街並みもすっかり普通の市街地です。
にらさき文化村は、小林一三の生誕地跡とのことです。
阪急東宝グループ、宝塚歌劇団の創始者ですので、関西の出身と思っていましたが、山梨県の方だったのですね。
韮崎宿に到着です。
実は、この石標に気付かず、数百m通り過ぎておりました。
慌てて戻っての、写真撮影です。
あまりにも街の風景に溶け込みすぎていて…。
7月12日のあるきろくはここまで。
時間にして7時間5分、歩数は約48,500歩、距離は約38kmでした。
次は、韮崎宿本陣跡をスタートし、目標は鶴瀬宿への到達です。
韮崎宿⇒甲府柳町宿⇒石和宿⇒栗原宿⇒勝沼宿⇒鶴瀬宿
鶴瀬宿を越えると、遂に笹子越え。
甲州道中随一の難所への挑戦です。
あるきろく20190616
2019年6月16日 あるきろく 甲州道中をあるく(1日目)
野猿街道をあるいたら、源流めぐりもいいけど、街道制覇もいいな、と思いました。
となると、甲州街道を攻めてみるか、と当然なります。
ということで、
9:07 下諏訪駅
高尾駅を6時14分に出る普通列車松本行に乗って、下諏訪まで来ました。
写真は撮りませんでしたが、この先風情があって良かった。
では、ここから日本橋に向けてスタートです。
9:28 甲州道中53番目の一里塚
写真が寝てしまいまいた。
日本橋から歩くと、最後の一里塚となります。
私は、あと52個の一里塚をたどって日本橋まで向かいます。
高台を歩くため、眺めがすごく良かったです。
9:49 下諏訪町五官
また写真が寝てしまいました。
大きなケヤキの木です。しかし、裏側は朽ちていました。
10:10 甲州道中52番目の一里塚
またまた写真が寝てしまいました。
実は、この一里塚に最初は気付かず、数百メートル通り過ぎてから戻ってきました。
またまたまた写真が寝てしまいました。
10:54 甲州道中51番目の一里塚
またまたまたまた写真が寝てしまいました。
一里で44分…ペースとしてはどうなんだろう?
11:40 甲州道中50番目の一里塚
またまたまたまた写真が寝てしまいました。
茅野市に入りました。
11:58 宮川沿いをすすむ
茅野市の市街地を抜け、現在の国道20号を外れると、素敵な景色が広がっていました。
12:10 現在の国道20号に戻ります
昔はなかったであろう跨線橋で中央本線を渡り、国道20号に戻ります。
私は、矢印とは反対方向で進んでいます。
12:24 甲州道中49番目の一里塚
宮川沿いに進みますが、この一里塚には一旦川を越えてから、「ある」建物をぐるりと廻りこんで到達します。
12:36 旧甲州街道青柳宿
宮川の流れが作ったであろう田畑の中を、旧道は通っています。
甲州道中の資料では、上諏訪宿の手前は金沢宿とされていますが、この看板によると金沢宿が設置される前に青柳宿が存在したのですね。
12:37 権現の森(金山権現)
さすが「教育県」と呼ばれる長野県だけありますね。
12:44 甲州道中金沢宿
宿場としては上諏訪宿の次に(江戸から向かうと手前に)なる、金沢宿に到着です。
13:02 諏訪南IC入口交差点
標高888メートルだって!
あっ、ローソンがある!
なんてのんきに歩いていましたが、実は甲州道中から外れていました。
いつまで経っても、あるはずの一里塚が見当たらず…。
金沢宿本陣跡を越えてすぐの、枝分かれのY字路(甲州道中)に気付かずに、現在の国道20号を歩いておりました。
13:17 甲州道中48番目の一里塚(御射山神戸一里塚)
間違って進んだ国道20号と、本来進むべきであった甲州道中の再び合流した地点から、とりあえず一里塚まで反対方向に歩いて到達。
帰りの時間を考えると、最寄りのすずらんの里駅で13時30分の電車には乗りたい。
したがって今回はここで終了にして、次回のスタートは進路を間違えたY字路から。
また、この御射山神戸一里塚は通ることになります。
歩いた距離は20kmくらい、時間にして4時間ほど。
途中でスマートウォッチの電源がなくなり、歩数計測はできず。
(下諏訪駅から、電源落ちるまでで17,350歩。11:40頃に落ちた様子。)
あるきろく20190526
2019年5月26日 あるきろく 野猿街道をあるく
5月は「川」攻めに徹してみようかと思いましたが、今回は「街道」をテーマにしました。
身近なところで、野猿街道にしました。
むかし、とんねるずがユニットを組んでいましたが、あの「野猿」です。
11:40 国道20号バイパス 青果市場東交差点
国立市谷保の20号バイパスです。
すぐそこに、国立府中ICがあります。
後で渡る、府中四谷橋が開通して、この交差点が起点(終点)になったようです。
12:11 一ノ宮交差点
川崎街道と交差する一ノ宮交差点です。
府中四谷橋開通までは、この交差点が起点(終点)だったようです。
12:23 和田中学校入口交差点
野猿街道は大栗川とお友達です。
殿田橋すぐ脇の「和田中学校入口」交差点です。
2019年5月11日あるきろくにも、和田中学校は登場しています。
12:35 八王子市大塚を歩く
見ざる、言わざる、聞かざる…。
むかしは「野猿」に向かう道に、こんな看板がありました。
今では、こんなお洒落な名前、看板になりましたが、よくよく見ると、名残はありました。
12:35 堰場交差点
多摩都市モノレールと交差します。
交差する道路の名称も「多摩モノレール通り」です。
13:00 大栗川橋北交差点
平山通りと交差します。 右折して急坂を登ると、某薬科大学があります。
13:13 下柚木交差点
大栗川とここでお別れします。 右折して、野猿街道は峠に向かって登っていきます。
なお旧道は、一つ手前の下柚木交番前交差点で別れ、八王子市立由木中央小学校前を抜けていきます。下柚木交差点から数百メートル先の殿ヶ谷戸交差点で合流します。
13:31 野猿峠
野猿峠です。
炎天下ということもあり、ここまでの登りで結構体力を消費しました。
13:50 打越交差点
野猿峠からは絹ヶ丘を一気に下ります。
途中からクネクネの旧道を進み、北野駅近くまで下りてきました。
正面 看板の表現が秀逸です。
13:57 北野橋南交差点
北野駅を過ぎると、野猿街道は現役の大通り感がなくなり、抜け道っぽくなります。
看板を見ながら慎重に進みます。
14:04 子安五差路の手前
どの道が野猿街道なのか、地図も確認します。
14:05 八王子市子安町1-23
14:06 八王子市子安町1-23
電柱を見ながら進みます。
道幅はだんだんとさびしくなります。
14:11 八王子駅南口東交差点
八王子駅南口を線路沿いまで入り込んでいきます。
人通りのある左手の道ではなく、右手に進みます。
14:15 八王子駅南口駅ビルと線路の間
本当の線路沿い。不思議な空間です。
線路がまだ引かれていなかったころは、どこに道があったのでしょうか。
14:17 八王子市子安町4-1
またまた交通量の少ない細い道です。
分かりづらいので、電柱だけが頼りです。
14:24 八王子市三崎町9
JR中央本線の線路を跨ぎました。
右手に曲がると八王子駅北口です。
14:27 八王子市横山町10
甲州街道沿いの建物が見えてきました。
ゴールはもうすぐです。
14:29 横山町郵便局前交差点
ついに甲州街道にぶつかりました。
向かいには、有名ミュージシャンの実家の呉服店がありました。
ただし、こちらは仮店舗だそうです。
現在、建て替え工事中なんですって。
今回は、およそ15kmを、2時間50分かけて、21,000歩くらいでお散歩しました。
さて、次はどこを歩こう?
あるきろく20190519
2019年5月19日 あるきろく 浅川源流を求めて
大栗川に続き、多摩川支流の源流を巡ろうと、次のターゲットを浅川にしました。
Wikipediaによると、その延長が30kmちょっと、水源は陣馬山とのこと。
難しいことを考えず、スタートです。
浅川は、府中四谷橋の西方で多摩川に合流します。
距離表示があるので、とりあえず3kmごとに写真を撮っていくことにします。
1km10分を目安に歩いています。
滝合橋で右岸から左岸に移ります。
写真左側に写る水路沿いにしばらく進みましたが、道が途絶えて戻ってきました。
滝合橋を渡ってすぐに6kmポストがありました。
ちらっと見える橋桁は、JR八高線です。
ずっと河川敷を歩いています。
向こうに見える橋は、萩原橋(?)。
滝合橋からここまではすこぶる順調。
八王子市清川町で中央自動車道をくぐりましたが、この辺りから河川敷の道が怪しくなってきました。
楢原町に入った辺りでは、川原の砂利道を歩きましたが、松枝橋から先は左岸では川に沿って歩くことができなくなりました。
右岸に回ればよかったのですが、いつか川沿いに戻れるだろうと、住宅街に入った結果、袋小路で大変な目に遭いました。
さんざん行ったり来たりをした挙句、秋川街道まで回り道をして、上って下ってをして、やっと陵北大橋で浅川に戻ってきました。
小田野中央公園に向かって、しばらくきれいに整備された歩道がありました。
折れかけた気持ちを奮い立たせて再出発です。
キロポストはもうしばらく見ておりません。
水も流れておりません。
水が戻ってきました。
清流、というような雰囲気になってきました。
山、という感じがしてきました。
ここからは、陣馬街道を歩いていきます。
水が透き通っています。
ここでは、樹木が茂っており、また水面が深くて見えませんでした。
山間深くなってきました。
川幅もだいぶ狭まってきました。
突如現れました「上流端」。
とりあえずは浅川「完歩」です。
でも流れは強いので、先を進みます。
陣馬高原下バス停先のY字路を、明王峠方面に進みます。
右手に養魚場が見えてきました。
車が結構停まっています。
水の流れが見えなくなりました。
地下を流れてきて、この辺りで湧き出てくるのかもしれませんが。
歩数は41,000歩くらい、距離は30~35kmくらいでしょうか。
5時間40分をかけてのお散歩でした。
さすがに、足腰が痛くなりました…。