あるきろく20200723
2020年7月23日 あるきろく 都道をあるく(第6回)
今年の梅雨は長いです。
毎日毎日、何でこんなに降るんだろう?というくらいによく降ります。
さて、今回は都道の中で最長の7号線に挑みます。
東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅あたりから、JR五日市線の武蔵五日市駅前まで歩きます。 お天道様が顔を出していないので、暑さに苦しむことなく、歩けそうです。
新高円寺駅から地上に上がり、すぐ目の前に地図看板がありました。
その看板越しに、旧五日市街道の起点があります。
今日あるく都道7号線は、江戸時代初期に成立したとされる五日市街道をほぼきれいになぞって進みます。
このスタート地点は、別道ですが。
青梅街道を100mくらい新宿方面に戻ると、「五日市街道入口」交差点に到着します。ここが、都道7号線の起点です。
今日は、ここをスタートにして、武蔵五日市まで歩いていきます。
不意に現れた1kmポスト。
この先を期待させてくれます。
地図を見ると分かりますが、現在ポイントを中心にくねった道があります。
左側の善福寺川を挟み、河岸との高低差をクネクネした道で上り下りしたそうです。
写真では、左側が都道7号線で、右側に分岐する道が五日市街道の旧道です。
善福寺川を渡ります。
ここで、雨脚が若干強まってきました。
今日は傘は持たず、リュックサックごと雨を遮るよう、ポンチョを被りあるきます。
旧道は、尾崎橋を渡るとミニストップの裏手を回り、この交差点で都道7号線と交差します。交差した先は郵便局を回り込む形でまた都道7号線に戻ります。今度は、青山自動車工業所の前を通り、またまた都道7号線と交差していきます。本当に何回も何回も曲がりながらの道です。
説明板は尾崎橋にあったものと同じですが、もっといろいろなところに、このように歴史を残すものがあっても良いですね。
環八通りである都道311号線と交差して、さらに西へと向かいます。
横断歩道を渡りながら左側を眺めると、同じ都道7号線が「井の頭通り」として走っている様子が見えました。
環八通りを越えてからは、たまに抜けているところもありましたが、100mおきに距離ポストが設置されていました。
3.6km地点の距離ポストは、舗装をきれいにした際に、数字が見えないところまで埋められてしまったようです。
距離がはっきりとすることで、あるくスピードのコントールができるし、ゴール時刻の目安もついて、くじけそうになっても頑張れるのです。
杉並区から武蔵野市に入りました。
吉祥寺駅から北に走るサンロードです。
一時期、「密」の象徴的な映像がここでよく撮影されていました。
ここでは距離ポストは埋め込み式でした。
この7.7kmを過ぎてすぐ、街道の右手に成蹊大学のキャンパス入口があります。
安◯首相の出身校としても有名ですが、同窓の皆様は今何を思っているのでしょう。
環八通りと交差した際にも触れましたが、都道7号線は支線が多く、別名称の通りとして吉祥寺近辺を縦横無尽に走っています。
武蔵野大学前で「へ」の字に曲がり、これまでの北西方面から南西方面に向きを変えて進みます。
ここからしばらくは、中央に緑地帯を挟んだ通りとなります。
旧道をトレースするのは緑地帯の向こう側の道(吉祥寺方面の車線)ですが、距離ポストを抑える必要上、手前の道(小金井方面の車線)をあるきます。
10kmで1時間45分でしたので、正確な距離は分かっていないものの、40kmあるくとして、ここではゴール時刻を13時頃と見込みを立てました。
都道7号線グループである井の頭通りは、この関前五丁目を起点としています。
あるいているときには気付きませんでしたが、井の頭通りの延長線上にある道は、あるきろく20200321に出会った、あの自転車専用道でした。結構グレートな交差点です。
これよりしばらく、玉川上水と五日市街道は並行しています。
玉川上水は1653年にできた、と解説板には記載があります。
五日市街道については、「歴史の道 調査報告書集成 20 関東地方の歴史の道10」の記載によると、
・五日市街道はその昔、伊奈道と呼ばれていたこと
・その伊奈道は、1590年の徳川家康江戸入府以後、江戸城築城などの土木工事に伊奈の石工が重用されたが、その石工たちが江戸との行き来の際に利用した
ということです。
で、五日市街道が先なのか、玉川上水が先なのか、ということですが、どなたかご存じでしょうか?
最近は訪問していませんが、広くてよい公園です。
小金井橋にこの碑と解説板がありました。
解説板に描かれている絵だけでも、きれいな桜が思い浮かびます。
ぜひ、春に来てみたいものです。
玉川上水の両側に道路がある構図は変わりませんが、この喜平橋で、五日市街道は橋を渡り、玉川上水との位置関係を入れ替えます。
これもあるので、五日市街道が先か、玉川上水が先か、がとても気になるのです。
普段の生活では馴染みのない西武鉄道ですが、あるきろくではよくお世話になります。
ここでは西武多摩湖線との交差です。
国分寺市に突入しました。
武蔵野市に突入の後、頭上の市境看板はこれまでありませんでした(それとも気付かなかっただけ?)が、西東京市、再び武蔵野市、小金井市、小平市ときての国分寺市です。
この手前で、国分寺市から立川市に突入しました。
20kmポストは立川市若葉町にありました。
地図で見ると、赤丸の位置からポイントマークの位置まであるいたことになります。
イメージ的には、だいぶ西まで来たような気がしますが、まだ見込んでいる距離の半分しかあるいていないことになります。
ちなみに、この10kmも1時間45分とペースをしっかり守れています。
少しだけ近未来的な景色の砂川七番交差点です。
頭上を多摩都市モノレールが走っています。
なお、この辺りをあるいている頃、雨脚がすごくなり、写真撮影が疎かになります。
歩道も水浸し、車の跳ね上げる水にも注意しながらの道中となります。
しばらく別行動であった玉川上水と再会する天王橋です。
立川市一番町に位置します。
20kmポストのあった若葉町からこの辺りまで、西に向かって砂川十番~砂川一番という呼び名があります。モノレールの砂川七番のように。
でも、これらは現存の町名ではありません。
1963年に立川市に編入するまで、この辺りは北多摩郡の砂川町でした。
そのまたはるか昔ですが、江戸時代に、年貢徴収の単位として、西から順に「一番組」「二番組」というように集落ごとに名付けたのが由来のようです。
さて、この天王橋には、古くからの道標があるとのことでしたが、豪雨により探す意欲を削がれ、交差点の写真のみを撮影して、先を急ぐのでした。
このY字の交差点で、都道7号線は緩く左に曲がっていきます。
ここからしばらくは、あえて都道7号線をはずれ、真っ直ぐの道を進むことにします。
先ほどの交差点から10分あるきました。
正面および右手には米軍横田基地が広がります。
あるいてきた道は、基地にぶつかり不自然な急な角度で左に曲がります。
もともと、五日市街道は地図上の赤線の位置にありましたが、朝鮮戦争にともない横田基地が拡張されることになり、1956年6月の東京都の告示により、五日市街道の付け替えが行われることになったことによるものです。
横田基地を迂回することになった都道7号線に戻り、西に向かってあるきます。
踏切に出会いましたが、単線でしたので、八高線かな?と思いながら踏切名称を見ると、横田基地への引き込み線でした。
横田基地を迂回する都道7号線・五日市街道は、南北にはしる国道16号線を数百m並走し、ここ第五ゲート前交差点で、再び単独行動に移ります。
基地の拡張がなければ、先程の急カーブのところからここまで真っ直ぐ来ることができました。
なお、交差点を曲がってすぐに30.2kmのポストがありました。
この10kmは2時間ちょっと。
「旧」五日市街道を回ってきたこともあり、あるいてきた距離はこれよりも長く、また豪雨によるペースダウンもあり、20km地点までと比べて20分/10km程度時間がかかりました。
ということで、ゴール時刻を13時30分に修正して、先に進みます。
八王子~高崎(正式には、倉賀野)を結ぶ八高線です。
この辺りは電化されましたが、高麗川~高崎は今もなお非電化区間です。
青梅線、新奥多摩街道、奥多摩街道、そして五日市街道は、多摩川に沿うようにして狭い範囲に寄り添いながら川上へと向かって行きます。
ただし、五日市街道に関しては、その昔はきっと、この交差点では曲がることなく多摩川岸まで直線で進み、そこに渡しがあったのではないかと思うのですが…。
多摩川を渡る多摩橋です。
雨脚は弱まりましたが、川の流れは結構激しいです。
橋上には、32.2kmと32.3kmの距離ポストがありました。
橋を渡るとあきる野市に突入し、自治体としては目的地に到達したことになります。
多摩川を渡り、小高い丘に登ると、これまでにはなかったのどかな景色がありました。
急にゴールが近いように思え、ウキウキしながら今日はじめてGoogleMapで武蔵五日市駅までの距離を出してみましたが、まだ7~8kmあることが分かり、逆に萎えてしまいました。
秋川駅北口のロータリーを越えたのち、踏切で五日市線の北側から南側に移ります。
単線であることだけでなく、踏切で眺めた線路脇の雰囲気がもう「街中」ではないような気がしました。
観覧車がものすごく近くに見えました。
サマーランドには、いつも車で行きますし、南側からのアプローチなので、このような見え方は初めてです。
ここで37kmなので、あと3kmくらい?…と気持ちを引き締め、先に進みます。
ここでも、都道7号線同士が合流します。
一方は、睦橋通りという名称です。
都道7号線は、横田基地を迂回し国道16号線と並走する際、北に回る今回のルートと、一旦南へ向かい拝島駅前から幅広い一直線でここまで来る睦橋通り、の2本で多摩川を渡っています。
交差点の名称通り、左側が新しい橋、道路です。
右側の若干細い道が古くからある五日市街道です。
地図を見ると、古い道は川を渡らずしてひかれています。
新しい道は2本の橋で秋川を越えて、右手からの旧道と合流します。
実は、ここでアクシデントが発生しました。
左足小指は、以前から血マメができやすいのですが、ここで急にマメが破裂したような痛みに襲われ、普通に歩けなくなりました。
もう少しでゴールだから…と、我慢しながら左足を引きずるようにあるいています。
足の痛みでさらにペースダウンをしましたが、ついにゴール地点が見えてきました。
頭上の看板標識も、ぶつかる丁字路の左右がともに都道31号線であると記しています。
この地点の距離ポストは41.1kmです。
41.1kmポストから、それこそ100mか200mの距離ですが、写真を撮った時間差が8分あります。
ここまで、100m間隔で行く先を示してくれていた距離ポスト、都道5号線(青梅街道 → あるきろく20200321)の時と同じく、終点ポストを期待し、この交差点周辺をくまなく探しました。
が、見当たりませんでした。
致し方なく、五日市街道がここから始まりますよ、的な標識を撮影したのが13:30ということになります。
結果的には、途中で修正こそしましたが、見込んでいた通りの時刻の到着でした。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、時間は6時間45分、歩数はおよそ63,000歩、距離は46kmくらいでした。
距離ポストの数字とは若干誤差がありますが、横田基地に分断された旧道をあるくところで、2kmくらい遠回りしたので、こんなものでしょうか。
また、今回は距離ポストばかりに注目しましたが、単独自立版のヘキサ標識は1本もありませんでした。
さて次回は、東京都道8号線をあるきます。
九段下から谷原交差点を経て、田無へと向かう道です。
名称では、目白通りと富士街道になります。
ゴール地点は、都道4号線をあるいた、あるきろく20200315のなかで、都道4号線と都道5号線が分岐する田無1丁目交差点を示した地図にさりげなく出ています。
新宿側から見て、「田無1丁目」の一つ手前の交差点に該当します。