あるきろく20200830
2020年8月30日 あるきろく 都道をあるく(第9回)
もう8月も終わろうとしていますが、まだまだ猛暑日になる日が続きます。
こんな暑い日にあるくと、結構ダメージを受けるものです。
しかしながら、今回の都道10号線が比較的短距離であることからも、暑さはどこかに置いておいて、いざ決行です。
都道10号線は、ここ日本橋交差点を起点とし、千葉県浦安駅前が終点です。
この地図は、東京都の都道検索システムの画面ですが、緑色が都道を、オレンジ色が国道を示しています。
日本橋交差点は、「あるきろく20200126 甲州道中をあるく(8日目)」で通過して以来です。
都道10号線の起点ポストはどこか?と、交差点をあっちに渡り、こっちに戻り、で歩道の縁をさがしました。
すると、国道1号線の距離ポストが、交差点の東京駅寄りにありました。
都道10号線の起点ポストは見当たりませんでした。
昭和通りである都道316号線と交差します。
この地下では、東京メトロ東西線と都営地下鉄浅草線が交差しています。
新大橋通りである都道50号線と交差します。
都道50号線も都道10号線と同じく、千葉県(市川市)を目指して伸びる道です。
この地下では、東京メトロ東西線と東京メトロ日比谷線が交差しています。
日本橋川から分かれる亀島川に架かる橋です。
橋の名称は、江戸時代初期にあった霊岸島、霊岸寺が由来とのこと。
葦の茂る低湿地を埋め立てて、現在の中央区新川1丁目、2丁目辺りに島ができました。
そこに建てられた寺が霊岸寺であり、島の名称も霊岸島となったそうです。
この霊岸寺は、明暦の大火の後に深川に移転しますが、今もなお清澄白河駅のすぐそば、深川江戸資料館と同じ区画に「霊巌寺」として現存します。
なお、橋の北側の眺めは、ご覧の通り水門のみです。この向こうに日本橋川が流れているようです。
日曜日の朝なので車通りは少ないですが、普段は相当多くの車が通ると思われます。
距離ポストの汚れ方が凄かったです。
最初の1kmは、20分弱とだいぶスローペースで入りました。
隅田川に架かる国の重要文化財でもある永代橋は、古くは江戸時代、元禄11年(1698年)に架橋され、赤穂浪士が討ち入りの後に渡ったとも言われています。
1807年には富岡八幡宮の例祭に訪れた参拝客の重みに耐えられず落橋、1923年の関東大震災では焼け落ちた、という歴史の後、現在の橋は1926年に震災復興事業第一号として架橋されました。
北の方角には東京スカイツリーが、南の方角には湾岸のタワマンが聳えているのがよく見えます。
大島川西支川に架かる橋です。
こちらも江戸時代、文久2年(1862年)の尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図には記されており、現在の橋は昭和4年に架けられ、昭和41年の拡幅工事を経て今に至るようです。
東詰には、次の一万円札の顔となる、明治から大正にかけて活躍した実業家である渋沢栄一の居宅跡がありました。
清澄通りである都道463号線と交差します。
またこの地下では、東京メトロ東西線と都営地下鉄大江戸線も交差します。
門前仲町と言えば富岡八幡宮です。
江戸最大の八幡宮で、江戸時代初期の寛永4年(1627年)に創建されたとされます。
当時のこの辺りは、永代島と呼ばれる低湿地であったようですが、砂州を埋め立てることにより社有地を広げ、また後に整えられた庭園は庶民からも人気の名所であったようです。
また、現在も毎年8月に行われる深川八幡祭りは江戸三大祭りの一つに挙げられます。
アーケード街には、富岡八幡宮を紹介する江東区の看板があり、見えてきた鳥居はとても立派なものです。
平久川に架かる橋です。
この橋も、尾張屋板江戸切絵図・本所深川絵図に記されていたそうです。現在の橋は、平成5年架橋とのことです。
川のないところに橋が現れました。
下に見えるのは自転車置き場です。
何だろう?と思っていたら、路傍に解説板がありました。
平成14年に撤去した、とありますが、撤去とともに川を埋め立てた(もしくは暗渠化)ということなのでしょうか…。
三ッ目通りである都道319号線と交差します。
一般的には呼ぶことはありませんが「東京都市計画道路幹線街路環状第3号線」、つまり「環状3号線」として整備されている道路です。
「環7」「環8」はそのままに呼ばれているのに、どうしてこちらはそのようにならなかったのでしょうか?
大横川に架かる橋です。
最近の某深夜番組で、満潮になったら、水が引くまで通ることができない低い橋をくぐる、すなわち「リンボー・クルージング」と題してとして紹介され、実際に某タレントさん達がこの橋の下をくぐっていったようです。
四ツ目通りである都道465号線の起点となる東陽町駅前交差点です。
起点ポストを発見しましたが、「特例都道」ということで「特」の文字が刻まれています。
「特例都道」とは何か?と調べましたが、「都の特別区内で、道路法第7条第1項の規定によらず、道路法第89条によって区間を定めた道路」ということです。
何のことだか全くわかりません…。
東陽町を過ぎ、数分あるくと5kmポストがありました。
今回は10km程度の距離と見込んでいますので、大体半分まで来たかなぁ、という感じです。
この5kmポストを越えてすぐ、架線のない単線の線路を踏切で渡ります。
路線の戸籍としては、JR総武本線であり、その貨物路線とのことです。
小岩から越中島貨物駅へ至ることから、越中島支線と呼ばれているようです。
越中島支線の踏切を越えて、ものの数秒で、日曹橋交差点で明治通りにぶつかります。
日曹橋という名称ですが、日曹橋そのものは昭和58年に撤去され、現在では橋は存在しません。
日曹橋は、この交差点のすぐ南側で洲崎川にかかっていた、ということです。
また、「日曹」という名称についても、その昔日本曹達という会社の工場がこの地にあり、それが由来となっているようです。
日曹橋交差点では、そのまま真っ直ぐ都道10号線および永代通りの名称が、そのまま東に向かって伸びています。しかし、最近までこの日曹橋交差点は丁字路だったようです。そして都道10号線も、明治通りである都道306号線とともに北上し、荒川に向かっていたようです。
ということで、あるきろくはここで左折、明治通りに入り北上します。
明治通りの名称を借りて北上した都道10号線は、この南砂四丁目交差点でも、右折して葛西橋に向かう葛西橋通りと、もう少し明治通りで北上し、もう一つ先の交差点から旧葛西橋に向かう清州橋通りとに分かれます。
今日は、ここで葛西橋通りに入り、葛西橋を目指します。
丸八通りである都道476号線と交差します。
平成26年まで、丸八通りは北から走ってきて、この交差点を終点としていたようですが、現在は南へ延伸され、延長された永代通り(都道10号線支線)と南砂町駅前交差点で合流して終点となっているそうです。
荒川を渡る葛西橋の西詰に到着しました。
現在の葛西橋は1963年に完成しましたが、それまではここから300mほど上流に(旧)葛西橋が架かっていました。
南砂四丁目交差点から明治通りとして北進した都道10号線の支線は、境川交差点からは清州橋通りとなって(旧)葛西橋まで伸びています。
一旦、(旧)葛西橋に向かって都道10号線の本線をはずれます。
葛西橋西詰から神明通りを通り、旧葛西橋交差点まで来ました。
写真では、西方から清州橋通りをやってきた都営バスが、神明通りに入っていくところを写しています。
1972年までは、都電が清州橋通りを、この旧葛西橋交差点まで来ていたそうです。
メンズショップ マツザカヤの右側にゆるく曲がる道を進むと、(旧)葛西橋に到達します。
今回一番の痛恨のミスを犯しました…。
ここ東砂六丁目交差点に到着し、都道10号線「支線」の終点ポストがないか、交差点をぐるぐると探しました。でも、ありませんでした。
もちろん、すべての終点にポストがあるわけでもありませんし、ここもそんなもんだろう、と交差点を右折し、葛西橋に向けて歩みを進めました。
帰宅する電車の中で、都道検索システムでルートをおさらいしたところ、なんと!交差点の先堤防まで緑色に塗られているではありませんか…。
もしかしたら、堤防の辺りに終点ポストが立っているのかもしれない、と思うと、悔しくて悔しくて「夜も眠れません(←ウソ)」。
葛西橋西詰交差点に戻ってきました。
頭上は葛西橋の導入部分です。
導入部分は自動車専用道路で、歩行者は堤防沿いの階段を上って合流します。
この導入部分の下に、バス停がありました。
橋脚と橋脚の間をうまく使った、バス停&転回場所でした。
階段を上り、葛西橋を渡り始めます。
1963年の架橋は先ほど記しましたが、全長が727.4mの鋼カンチレバー突桁式吊補剛桁橋、とのことです。読んでも、まったくどんな種類の橋なのか分かりませんが…。
727.4mのうち、荒川を渡る部分が565.2m、中川を渡る部分が162.2mとのことです。
清州橋通りの延長線上に存在した(旧)葛西橋は、1928年に架橋された木橋脚の橋でした。路線バスも通っていましたが、1950年には老朽化のため崩落事故も発生したそうです。復旧の後は、車の通行は禁止され、仮設の人道橋として使用されてきたそうです。
そして、現在の葛西橋の架橋とともに、その役目を終えたとのことです。
1960年ごろのものと思われる葛西橋の航空写真です。
新旧の葛西橋がともに写っています。
まだ、現在の葛西橋は架橋中と思われます。
首都高速中央環状線の足元です。
荒川と中川を並行させながらも合流させないのは、やはり治水上こちらが合理的なのでしょうか。地図だけを眺めていると、とても不思議な感じがします。
さて、この中提が憩いの場的な場所になっていることは、今回初めて知りました。
葛西橋を渡り江戸川区に突入しました。
橋を越え、最初の信号・横断歩道のところに8.2kmの距離ポストがありました。
船堀街道である、都道308号線と交差します。
船堀街道は、荒川・中川に並行して南北に京葉道路から湾岸道路までを走る路線です。
そろそろ終点を意識して、距離ポストを改めて注視していきます。
8.2kmからの800mで12分かかりました。ペースは少し遅めですね。
環七通りである都道318号線と交差します。
環七通りの本線は、長島陸橋で頭上を飛び越していきます。
城東をあるくのは今回が初めてですが、環七通り、明治通りは城西、城東とで交わったことになります。
浦安橋が見えてきました。
頭上の看板標識も、直進方面は千葉、船橋、と東京の地名が消えました。
浦安橋も導入部分は自動車専用道路で、歩行者は堤防近くまでは側道で進み、階段、スロープで上がっていきます。
側道は車道幅も広く、妙に膨らみの大きな形で側道が始まります。
その始まりの部分に距離ポストがありました。
数字は砂ぼこりにまみれ、薄く消えかかっていましたが、何とか「10.8」という文字を読み取ることができました。
旧江戸川に架かる浦安橋です。
現在の橋は1978年に架橋されたもので、その前の橋は1940年に架橋されましたが、それ以前は渡し船で川を越えていたそうです。
ここからは、都県境の表示や距離ポスト(終点ポスト)やらに注意しながら進みます。
やはり数字は薄くなっています。
こちらは数字はある程度残っていますが、排気ガスの影響でしょうか、煤けています。
文字がかすれていますが、東京都と千葉県の都県境を表す看板です。
都道の終点ポストはありませんでしたが、先程の距離ポストが最後の距離表示でしたので、都道10号線の本線部分は11.2~11.3km程度であったことになります。
1枚目の写真。
手前の黒茶色の柱は、東京都が管理する街路灯です。
東京都のステッカーが見えます。
その奥には、すごく細かいのですが、青白い街路灯が見えます。
こちらは千葉県が管理する街路灯です。
2枚目の写真。
1枚目の黒茶色の街路灯の位置です。
これまた小さく写っているのですが、先程通り過ぎた都県境の看板が奥に見えます。
そうなんです、都県境を越えていると思われる位置に、東京都が管理しているはずの街路灯が1本あるのです。これは何を意味するのでしょうか?
浦安橋東詰でチーバくんがお出迎えしてくれました。
正直言うと、チーバくんの正面からの姿を見たのは初めてのような気がします。
目の前に高架が見えます。
東京メトロ東西線の線路です。
そして頭上の標識看板では、複雑な交差点を示していますが、もうどこにも「10」の文字がありません。
終点は間近です。
千葉県が東京都と同じようなポストを立てているのか分かりませんでしたので、念入りに交差点付近を見てみましたが、少なくともこの交差点には起点・終点ポストはないようです。
矢印看板で、それぞれの県道の進む先を表現していましたが、これで管理しているのでしょうか?
県道10号線を直進する方向は、県道242号線となります。
矢印看板が、交差点の向こう、某牛丼チェーン店の前に立っていました。
したがって県道10号線は、千葉県としてみると、浦安橋の中ほど(とは言っても、3分の1くらい)からの数百m程度で終了となります。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、
時間 : 3時間5分
歩数 : 約18,200歩
距離 : 約13km
でした。
今回の距離計測は、葛西橋手前で旧葛西橋方面へ足を延ばしたことを考えると、かなり正確な数値のような気がします。
さて次回は、都道11号線をあるきます。
起点は大田区東蒲田、終点は調布市国領町です。
第一京浜(国道15号線)の東蒲田二丁目交差点から、甲州街道の旧甲州街道入口交差点までの道のりです。
都道(&神奈川県道)9号線は多摩川の右岸に近いところを沿うように遡上しましたが、都道11号線は多摩川の左岸を同じように遡上する道路となります。
長い距離に亘り、「多摩堤通り」という名称が名付けられていることからも、その性格が見えてきます。
また20kmを越える距離となるようなので、早く涼しくなってくれることを祈るばかりです。
あるきろく20200828番外編
2020年8月28日 あるきろく番外編 自戒を込めて(その2)
あるきろく20200826番外編に続き、犬の散歩で近所をあるきながら、距離ポストを探しました。
おじさんは、「2つ」の都道41号線と都道18号線が囲む地域に暮らしております。
上の地図では、これらの道路の形がねずみ男にも見えますね…。
見えませんか…?
ねずみ男のあごのラインに当たる道路が、古くから存在する都道41号線です。
この4kmポストは、ねずみ男の左あごに当たる「向ノ岡」交差点から、あご先に当たる「春日神社」前まで来たところの歩道橋の下にあります。
このポストも、あるきろく20200826番外編の都道20号線4kmポストと同様、これまでに見たことはあるのでしょうが、全く記憶に残っておりませんでした。
こちらは、向ノ岡交差点からねずみ男の頭頂部に当たる新大栗橋に向かって走る都道41号線のバイパス新道、「向ノ岡大橋」の上にある4kmポストです。
ここも毎日、毎日通るところですが、今の今までここにこれが埋まっているなんて知りませんでした(というか、気にも留めていませんでした)。
写真では小さくなっていますが、この道の奥に見える橋(歩道橋ではなく、もともと谷であったところを渡る橋です)の下が向ノ岡交差点です。
向ノ岡交差点すぐそばの植樹の足元に、3.7kmポストが埋まっています。
これも、この数日で探り当てました。
1979年の写真では、まだ向ノ岡大橋はありません。
都道41号線はあごのラインの1本だけです。
ただし、新大栗橋交差点付近では、すでに整地が始まっているようですね。
ここまで「4km」ポストとだけ記してきましたが、起点は、あるきろく20200823で通った新大丸交差点であると思われます。
川崎街道の名称で川崎方面からやってきた都道9号線から、新大丸交差点で都道41号線が引き継いでいると思われます。
ただし、都道9号線の変遷からして、もう一つ川崎寄りの大丸交差点が起点である可能性もあるので、都道41号線をあるくときには、丹念に距離ポストを拾っていくことにします!
あるきろく20200826番外編
2020年8月26日 あるきろく番外編 自戒を込めて…
都道を9号線まであるき終えました。
最初はヘキサ標識ばかりを追いかけていましたが、5号線からは距離ポストの存在に注目しながらあるくことが多くなりました。
最近では、近所で犬の散歩をするときも、車で移動するときも、ついつい歩道の植込みに青いものがないか、追いかけてしまうようになりました。
今日も、近所のスーパーで買い物をした帰り道、歩道と車道の境目ばかりを見ながらあるいていると、なんとこの距離ポストが立っていたのです。
現在の住まいに10年暮らし、毎日駅までこの道をあるいていますが、いま申し上げます。
「初めて見た!」
いや、初めて見た、ということはないのでしょうか、見たことの記憶が全くありません。
意識をせずにいると、また興味のないものというものは、目の前にあっても、入ってこないということなのですね。
今回の経験で良く分かりました。
なお、都道20号線は、このあと10番目にあるく道になります(13号線は欠番)。
都道9号線の終点であった、府中市役所交差点からしばらくの間、都道18号線との重用区間として、この地図にある新大栗橋交差点まで一緒にやってきます。
ここからは、都道41号線(川崎街道)との重用区間として一ノ宮交差点へ、その先は、あるきろく20190526で通った野猿街道、そして柚木街道として神奈川県相模原市へと抜けていきます。
ということで、今回は番外編でした。
あるきろく20200823
2020年8月23日 あるきろく 都道をあるく(第8回)
朝も昼も夜も暑い日が続いていましたが、8月22日土曜日の夜、部屋に入り込んでくる北風が涼しいものでした。加えて、翌23日は天気があまり良くなく、最高気温も32℃くらい、とのこと…。
ならば、先週も歩いたばかりだけど、今週もあるきに行こう!ということで、今回は都道9号線&神奈川県道9号線をあるきます。
ただし今回は初めて、都内出発ではなく、神奈川県側から東京都に向けての行程です。
今回の起点は、国道15号線、国道132号線から分岐する宮前町交差点です。まず最初は、「市役所通り」という名称で川崎駅前まで進みます。
川崎駅前で右に曲がります。
100mか200mくらいJRの線路と並行にあるきますが、その線路をくぐる手前に、初めて「府中街道」の標識が登場します。
くぐった先にも、片矢印の「府中街道」標識がありました。
この交差点から国道409号線とともに先に向かいます。
国道409号線は、川崎市の高津区を起点とし、東京湾アクアラインを通り、千葉県成田市まで続く道路です。
この交差点から県道9号線とともに進む道は「府中街道」、多摩川下流方面に進む道は、川崎大師を通ることから「大師道」という名称です。
おにぎり看板を発見しました。
そういえば、都道4号線を最後に自立ヘキサ標識看板にはお目にかかれておりません。
今日もお会いできないままに終わってしまうのでしょうか?
遠藤町交差点、国道1号線との交差点です。
都道を2号線から今回の9号線まであるいてきましたが、国道1号線と出会うのは、2号線をあるいて以来です。
ヘキサ標識の登場前に、おにぎりが2つ目です。
やはり、国道パワーの方が大きいということでしょうか?
今日の行程は、多摩川および南武線とずっとお付き合いしながら、北上していきます。
踏切を渡るとすぐに、本日3つ目のおにぎり。
雰囲気としては国道然としない道ながら、やはり恐ろしや国道パワーです。
早4つ目です、おにぎり。
もしかしたら、国道であることを誇示するために、多く立てているのかも。
あるきろく20200215であるいた都道2号線&神奈川県道2号線と交差します。
多摩川から東京側は「中原街道」、多摩川から横浜側は「綱島街道」の名称でした。
あるきろく20200215では、ここでは写真を撮らずに通過しておりました。
都道&県道2号線と丸子橋で分岐した県道45号線と交差します。
都内では都道2号線が名乗っていた「中原街道」を、神奈川県内では県道45号線が引き継ぎます。
府中までの残りの距離が出てました。
残り21kmということですが、起点から終点までの位置関係では、こすぎごてんみどり歩道橋はここになります。
3分の1を終えたかどうか、という感じでしょうか。
ここから府中までは17km。
こすぎごてんみどり歩道橋から、4kmあるいたことになります。
経過した時間は42分。
起伏もないので、だいぶ速いペースであるいているように思います。
国道246号線と交わる溝口交差点です。
3枚目の写真、国道246号線が起点から15.2kmであることの距離ポスト、発見しました。
交差点の手前には、府中街道の名称とともに県道9号線であることが示されています。
さて、頭上の看板では、この先「409」という数字が出てきません。
先述の通り、国道409号線はこの交差点を起点としており、ついにここからは県道9号線の単独行動となります。
これまで、まとまった緑のない道をあるいてきましたが、ここで鬱蒼とした茂みが登場し、また、お世辞にもきれいとは言えない澱んだ「水溜まり」に出会いました。
この碑が立っていなかったら、謎に包まれたままに立ち去っていたと思います。
年に何回か、川崎まで南武線に乗ることがありますが(今朝も乗りましたが)、失礼ながら、久地駅は名前が出てこないランキング1位と言えそうなくらいに、馴染みがない駅です。名前のインパクトとかもあるのでしょうか?
そんな久地駅を眺めながら、踏切を渡ります。
久地駅さん、ごめんなさい。
この都道をあるくシリーズは、これまで都心から郊外へと伸びる道ばかりでしたが、今回の9号線は南北方向の道路です。
したがって、これまであるいてきた都道(県道)2号線、都道(県道)3号線や、大きな国道(1号線、15号線、246号線)など、多くの幹線道路と交差しました。
そしてここでは、東名高速道路とも交差です。
小さい頃はテレビにコミックスと、楽しませていただきました。
藤子・F・不二雄先生のミュージアムがここにあります。
川崎市内にあることは知っていましたが、ここにあるんですね。
先程通った、二ヶ領用水「久地分量樋」跡の少し手前にある梅林交差点で分岐する新道がこの辺りのメインストリートとなっていて、並行して走る県道9号線は交通量も少なめです。
たまに、川崎方面に車でこの辺りを通りますが、やはりその新道を走るため、ミュージアムの存在には気付きませんでした。
交差点を右に曲がると向ヶ丘遊園駅へのアプローチ。
真っ直ぐ県道9号線を進むと、小田急線を跨線橋で越えていきます。
画面には入っていませんが、もう少し右を向いたところにダイエーがありました。
現在の建物が49年経ったようで、建て替えします!と懸垂幕を出していました。
あるきろく20200308で通過したポイントです。
都道3号線&神奈川県道3号線をあるいたときに通りました。
この地図で見ると、右上から左下に向かってあるいていきました。
撮影角度は異なりますが、オレンジ色のビルでお分かりになると思います。
やっと出会うことができました、ヘキサ標識。
多摩警察署前交差点を過ぎ、多摩消防署の前をあるいていたとき、それこそ消防車に気を取られつつあるいているときに、不意に視界に入ってきました。
川崎市多摩区生田1丁目10番18号で、本日2本目のヘキサ標識です。
縮尺次第のところはありますが、1枚の地図に収まる範囲で2本です。
お祭り認定なるか…?
またしばらくヘキサ標識が見当たらないと思っているうちに、東京都に突入するところまでやって参りました。
地図では、点線が都県境にあたります。
これまでずっと進行方向の左側をあるいてきましたが、一旦右側に移りました。
都県境で、標識に何か変化がないか確認するためです。
この標識は、起点または終点を惹起させる形であり、また、支柱に見える印は川崎市の市章です。
東京都に入ると、ご存じ緑色のイチョウの葉が貼付されています。
再び進行方向左側に戻ると、起点ポストが立っていました。
「0主13」と、間違いなく「主要地方道13号線0km」を表す印です…。
ちょっと待てよ?「13」号線??「9」号線は???
wikipediaによりますと、13号線は欠番であり「整理番号9に変更」とあります。
当路線は、距離ポストにあるように、以前は13号線だったようですが、1号線が6号線となったものと同じ理由でしょうか、神奈川県道のナンバリングに揃える形で変更したのでしょうね。
都道19号線と交差する矢野口交差点です。
ここで注目すべきは、ここまで「府中街道」を名乗っていた名称が、「川崎街道」となっていることです。
東京都建設局のホームページに掲載されている「東京都通称道路名~道路の分かりやすく親しみやすい名称~」には、
・府中街道 起点:稲城市大丸 終点:東村山市久米川五丁目
・川崎街道 起点:日野市日野本町一丁目 終点:稲城市矢野口
とあり、東京都としては公的に、この辺りの都道9号線は府中街道ではなく川崎街道として認めています。
余談ですが、支柱には緑色のイチョウのマーク。10:29の写真では、府中街道矢印標識の支柱に川崎市市章がありました。
JR南武線矢野口駅近くに、ヘキサ標識です。
なお、Google Mapでは川崎街道と府中街道の名称が併記されていました。
広域的には、やはり府中街道が一般的だから、ということでしょうか。
地図では右から左に向かってあるいています。
この交差点は、右に曲がると稲城大橋で多摩川を渡りますが、その橋の上で府中市内に入る道と、中央自動車道の上り線に合流する道の2本に分かれます。
なお、府中市内に入る道は、都道9号線の支線となります。
一方、左に曲がると鶴川方面に向かう都道19号線です。
都道19号線は矢野口交差点でも交差しましたが、ここ東長沼陸橋交差点にやってくる都道19号線は支線となります。
ここには、とてもご丁寧に、都道19号線の支線の7km地点であることと、おまけに終点であることを示すポストが立っていました。
この辺りまで来ると、見慣れた光景となり、だいぶ気分も楽にあるくことができるようになりました。
あるく道も、自動車の1車線分の幅より広く、そして歩行者と自転車を分けてあって、かつ通行量が少ない!ので、快調にあるくことができます。
都道9号線は新大丸交差点を右折し、名称も「府中街道」に戻ります。
「川崎街道」は都道41号線となり、おじさんの住居前、聖蹟桜ヶ丘、高幡不動を通り、甲州道中の日野宿まで向かいます。
早速ですが、都道41号線のヘキサ標識がありました。
また、都県境からしばらくは、距離ポストでは都道「13」号線となっていましたが、ここで見つけた距離ポストは「9」号線となっていました。
是政橋で多摩川を渡ります。
マンションのかげになっていますが、正面には東京競馬場のスタンドが見えます。
多摩川上流を眺める写真では、南武線と武蔵野貨物線の鉄橋が見えます。
その向こうには、おじさんの生活圏が写っています。
右に向かう通りは新小金井街道(都道248号線)です。
数百m進んだ先で、東長沼陸橋交差点で別れた都道9号線支線と合流します。
あるきろくは、東京競馬場の西側をなぞるように進み、府中市街地に入っていきます。
あるきろくに2度ご登場いただいた某呉服店のお嬢様が、歌詞にしたためた辺りです。
中央自動車道をくぐり、東京競馬場の西壁脇に立つ府中街道矢印標識を撮影しました。
某ビール工場も、ここからあるいて数分の場所にあります。
無料で見学でき、無料で数種類のビールを飲むことができる、天国のような場所です。
呼び名とは難しいもので、その時代や誰から見てのものなのか、などなど考えなくてはならないですね。
周辺地域にとってみれば、古代から国府の位置付けにあった府中を目指す道として「府中街道」と呼ぶのでしょうが、府中に住む人からすると、この碑にあるように川崎を目指す道なので「川崎街道」となるわけですね。
こういうの大好きなので、じっくりと勉強したいものです。
さてさて、頭上の近未来絵図は、JR武蔵野線・南武線の府中本町駅から競馬場に向かって、濡れることなく直行できる通路です。
競馬場西門交差点からは、立川崖線(府中崖線とも呼ばれます)を駆け上がるように上ります。上り切った位置に、府中本町駅入口交差点があり、ここで左折する道は「鎌倉街道」の名称で、町田方面に向かいます。
また、ここには武蔵国府跡があり、西暦700年頃には武蔵国司の館が、西暦1600年頃には徳川家康により築かれた「府中御殿」があったそうです。某大手スーパーがここへの移転を計画し、発掘調査を行ったところ、このような発見につながり、結果としてこのスーパーは移転を断念せざるを得なくなったようです。
府中本町駅を過ぎ、府中市役所が見え、さあゴールだ!と思っていたところ、目を疑う表示が。
都道9号線の終点は、府中市役所前交差点であって、旧甲州街道である都道229号線との交点のはず。
なのに、その先国道20号線方面まで、都道9号線が続く表示になっている…?
ちょっとまってよ~!
まず、1枚目の写真から。
府中街道は、この交差点を境に南側(看板では右側)が9号線、北側(看板では左側)が17号線であることを示しています。
2枚目の写真。
あるきろく20200113の「11:19 高札場と問屋場」の写真と同じく、府中高札場を正面からとらえた写真です。
3枚目の写真。
交差点の北側に移動し、そこに立つ府中街道矢印標識を写しました。
1枚目の写真と同様、交差点の南側(看板では左側)が9号線、北側(看板では右側)が17号線であることを示しています。
終点ポストがないかとウロウロしてみましたが、見当たらないので、念のため国道20号線交点まで行ってみることにしました。
念のためここまであるいてきました。
甲州街道と交差する府中街道の矢印看板には「17」の数字しかありません。
Google Mapにおいても府中市役所前より北は「17」となっています。
重用区間ということも考えられなくはないので、一応あるいておきましたが、あまり納得がいかない結末ですなぁ…。
交差点の北側にある街路灯のステッカーを見ると、管理番号は「17」。
交差点の南側にある街路灯のステッカーを見ると、管理番号は「9」。
終わりでグダグダしましたが、とりあえず本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、
時間 : 5時間40分弱
歩数 : 約47,700歩
距離 : 約36km
でした。
さて次回は、都道10号線をあるきます。
起点は日本橋交差点で、終点は少しだけ千葉県に入って浦安駅前です。
東側に向かう通りは初めてです。
あるく距離はあまり長くはないようですが、行き来の電車の状況を踏まえながら、実行のタイミングを決めようと思います。
でも今回は、ヘキサもおにぎりもたくさんあったから、良いことにしよう。
あるきろく20200815
2020年8月15日 あるきろく 都道をあるく(第7回)
梅雨が明けた途端、酷暑がやってきました。
酷暑と新型コロナウイルスの感染拡大とが相俟って、外出を控えるべきであることは言うまでもありません。
しかしながら、あるきろくは先に進みます。
さて、今回は都道8号線を、九段下から目白、練馬を経て西東京市に向かいます。
とにかく、暑さにやられないよう、注意しながらあるきます。
靖国神社を背にして、靖国通りを神保町方面を向いて写真を撮りました。
交差点から左手に向かう「目白通り」をこれからあるいていきます。
今回初めて出会った距離ポストです。
写真タイトルに「飯田橋駅」と書きながら、駅の写真を撮り忘れました。
横断歩道がなく、歩道橋が架かる飯田橋交差点に1kmポストがありました。
神田川に沿って西に進んでいると、この看板が現れました。
「ふ~ん」という感じです…。
交差点手前の頭上看板では、8号線は直線と右折の二手に分かれます。
直進する道は「新目白通り」、右折する道が「目白通り」です。
新目白通りを進むと、5km先で目白通りと合流するようです。
ここでは、目白通りを進みます。
さて、江戸川橋で右折して、すぐにこの目白坂下で左折します。
よくお名前はお聞きしますが、はじめてお目にかかりました椿山荘。
ここにあったのですね。
それにしても目白坂下からここまでは、驚くような急坂でした。
4kmポストの向こうに、歴史を感じさせる赤レンガの塀と建物がありました。
数十メートルあるいたのち、この目白通りを挟む形で、日本女子大学の敷地となっていることを知りました。
椿山荘を越えた辺りから、進行方向左手の建物の隙間から、ちらほらと新宿の背の高い建物が目に入ってきましたが、ここ千登世橋は眼下に明治通りと都電荒川線が走り、幅広い眺望が得られました。
残念ながら、撮影のタイミングでは、都電は走ってきませんでした。
目白駅脇の門は何度かお目にかかったことがありましたが、正門は初めてです。
風格ある門構えです。
JR山手線の目白駅です。
こじんまりと佇む、可愛らしい駅舎です。
山手線を越え、都道8号線は郊外へ向けて放射線状に伸びる趣を強めます。
ということは、「山手通り」「環七通り」「環八通り」とどこかしらで交差します。
江戸川橋で別れたもう一つの都道8号線「新目白通り」と、ここで合流します。
道路の形状を見ると、「新目白通り」の先にこれから進む「目白通り」が続き、ここまであるいてきた「目白通り」の先には「新青梅街道」が続く、そんな十字路です。
「新青梅街道」も起点となるこの交差点では「440」という大きな番号を背負っていますが、西に進むと「245」となり、最後は「5」、つまり都道5号線となります。
都道5号線は、あるきろく20200321で踏破しました。
環七通りとの交差点です。
環七通り本線は豊玉陸橋で頭上を越えていきます。
10km到達です。
1時間50分ほどかかりました。
雨の中あるいた都道7号線のペースより、やや遅いですかね。
ここまでに、ペットボトルの水を2回購入し、飲むだけでなく、頭からかぶったりと暑さ対策をしながら、あるいてきています。
それにしても、歩道橋の下、目立つことなく立っていました、距離ポスト。
10kmポストを超えた辺りから、道端の雰囲気が賑々しくなりました。
西武池袋線の高架がちらっと見え始めたころ、練馬区役所がありました。
練馬区役所バス停には小さく「練馬駅」とも書いてあったのですが、あるいている最中は駅がどこにあるかわからないままでした。地図で見て、この位置関係だったことを知ります。
ここで一旦、西武池袋線の北側に回ります。
高架橋はいくつも見ましたが、丸みを帯びたデザインにお花があしらわれており、優しい感じのする高架橋でした。
環八通りとの交差点です。
環八通り本線は、練馬中央陸橋として頭上を越えていきます。
環七通りから環八通りまで34分でした。
これまでの最短記録かと思いきや、都道2号線では27分であるいていました。
関越自動車道の練馬ICへのアプローチポイントとなる谷原交差点です。
交差点のスケール、交通量から、横断歩道はなく歩道橋で道路を越えていきます。
谷原交差点を過ぎてすぐ、「目白通り」はそのまま真っ直ぐ関越道を目指して伸びていますが、その番号は都道24号線となります。
進むべき都道8号線は「富士街道」として西に向かって左折します。
1枚目、引きの写真でお分かりのように、右側を直進するのが目白通りです。
2枚目、よく見ると距離ポストが立っていますが、これは都道24号線の起点ポストでした。
そしてあるきろくは、富士街道を進むことにします。
地図には、別れたばかりの「目白通り」に「8」が附番されています。
でも、先程の距離ポストしかり、遠く見やる頭上の看板標識からも、「目白通り」は「都道24号線」となったことは間違いありません。
落合南長崎駅の上(西落合一丁目交差点)から谷原交差点までは、大きな広い道路でしたが、この辺りは生活道路の雰囲気が漂っています。
15年ほど前に、板橋区の成増駅近くに住んでいたころ、たまに石神井公園駅まで来たことがあります。とは言っても、吉祥寺に向かうバスで通過しただけですが。
ただその頃は、線路も高架ではなかったし、駅舎も古めかしいものだった記憶なので、今回とても驚きながら眺めておりました。
練馬駅の西でくぐった線路を、再びくぐり、西武池袋線の南側に回ります。
ここからは、西武新宿線に向けてあるくことになります。
いつしか練馬区を抜け、西東京市に突入しておりました。
何気なく眺めながら通り過ぎた後に、慌てて写真を撮りに戻りました。
保谷市と田無市が合併して、西東京市が誕生したのが2001年。
19年経ちますが、まだまだ昔の名前で出ています状態でした。
この後も、気にしながらあるいてみると、同じ住所表示看板でも「保谷市」と「西東京市」が隣り合うように掲げられていたり、「保谷市」のマンホールが残っていたり、といろいろでした。
落合南長崎駅では都道440号線として旅立っていった新青梅街道も、出世魚の如くここでは都道245号線となり、再会を果たしました。
この地図を見ていると、この交差点の成り立ちが手に取るように分かりますね。
一番最後にやってきた新青梅街道が、いきなり主役に躍り出た、みたいな感じです。
先ほどの新青梅街道との交差点と、同様のパターンです。
それを更に進化させたケース、とでも言いましょうか。
都道233号線が、都道8号線を分断してしまいました。
仕方がありませんので、横断歩道のある交差点まで迂回します。
保谷中南交差点で横断歩道を渡ります。
1枚目の写真は、先程あるいてきた都道8号線を、都道233号線越しに眺めています。
2枚目の写真は、この先あるいていく都道8号線です。
何だか、寂しい雰囲気が漂い始めてきた、と思うのは私だけでしょうか?
都道8号線を間違いなくあるき続けていることの証明が、地面に埋まっていました。
このように道幅も狭く、新しい道路に虐げられているような感じも否めない都道8号線ですが、しっかりと管理はされているようです。
惜しむらくは、20kmポストもその昔は、先程迂回をせざるを得なかった都道233号線辺りに立っていたのではないか、ということです。
20.7kmの埋め込みポストです。
20.2km以降は、100m間隔で埋め込みポストが必ずありました。
深い愛情を注がれていることが確認できて、とてもうれしく思います。
西武柳沢駅前は一方通行の道でしたが、駅を過ぎてしばらくすると2車線道路となり、歩道には植え込みがある明るい雰囲気になりました。
その植え込みの中に、21kmポストがありましたが、埋め込みタイプながらしっかりとした体裁のものでした。
今回こそは、終点ポストにお目にかかれるかも、と期待して、目前に迫った終点を目指します。
都道4号線青梅街道に合流し、都道8号線は終点となります。
期待した終点ポストですが、2枚目の写真のこれではないかと思います。
色から想像するに…。
1枚目の写真の右下に写っているように、そのロケーションも抜群というか、絶妙な位置であり、間違いないと思うのですが、残念ながら壊れた状態でした。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、時間は4時間と数分、歩数は35,100歩、距離はおよそ26kmでした。
距離ポストのみで考えると、21.5kmくらい?まぁ、いいか。
さて次回は、都道9号線&神奈川県道9号線をあるきます。
9号線は起点が神奈川県川崎市で、終点が府中市とされています。
あるきろく20200113で通った、甲州道中の府中高札場のある交差点が終点です。
あるきろく20200723
2020年7月23日 あるきろく 都道をあるく(第6回)
今年の梅雨は長いです。
毎日毎日、何でこんなに降るんだろう?というくらいによく降ります。
さて、今回は都道の中で最長の7号線に挑みます。
東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅あたりから、JR五日市線の武蔵五日市駅前まで歩きます。 お天道様が顔を出していないので、暑さに苦しむことなく、歩けそうです。
新高円寺駅から地上に上がり、すぐ目の前に地図看板がありました。
その看板越しに、旧五日市街道の起点があります。
今日あるく都道7号線は、江戸時代初期に成立したとされる五日市街道をほぼきれいになぞって進みます。
このスタート地点は、別道ですが。
青梅街道を100mくらい新宿方面に戻ると、「五日市街道入口」交差点に到着します。ここが、都道7号線の起点です。
今日は、ここをスタートにして、武蔵五日市まで歩いていきます。
不意に現れた1kmポスト。
この先を期待させてくれます。
地図を見ると分かりますが、現在ポイントを中心にくねった道があります。
左側の善福寺川を挟み、河岸との高低差をクネクネした道で上り下りしたそうです。
写真では、左側が都道7号線で、右側に分岐する道が五日市街道の旧道です。
善福寺川を渡ります。
ここで、雨脚が若干強まってきました。
今日は傘は持たず、リュックサックごと雨を遮るよう、ポンチョを被りあるきます。
旧道は、尾崎橋を渡るとミニストップの裏手を回り、この交差点で都道7号線と交差します。交差した先は郵便局を回り込む形でまた都道7号線に戻ります。今度は、青山自動車工業所の前を通り、またまた都道7号線と交差していきます。本当に何回も何回も曲がりながらの道です。
説明板は尾崎橋にあったものと同じですが、もっといろいろなところに、このように歴史を残すものがあっても良いですね。
環八通りである都道311号線と交差して、さらに西へと向かいます。
横断歩道を渡りながら左側を眺めると、同じ都道7号線が「井の頭通り」として走っている様子が見えました。
環八通りを越えてからは、たまに抜けているところもありましたが、100mおきに距離ポストが設置されていました。
3.6km地点の距離ポストは、舗装をきれいにした際に、数字が見えないところまで埋められてしまったようです。
距離がはっきりとすることで、あるくスピードのコントールができるし、ゴール時刻の目安もついて、くじけそうになっても頑張れるのです。
杉並区から武蔵野市に入りました。
吉祥寺駅から北に走るサンロードです。
一時期、「密」の象徴的な映像がここでよく撮影されていました。
ここでは距離ポストは埋め込み式でした。
この7.7kmを過ぎてすぐ、街道の右手に成蹊大学のキャンパス入口があります。
安◯首相の出身校としても有名ですが、同窓の皆様は今何を思っているのでしょう。
環八通りと交差した際にも触れましたが、都道7号線は支線が多く、別名称の通りとして吉祥寺近辺を縦横無尽に走っています。
武蔵野大学前で「へ」の字に曲がり、これまでの北西方面から南西方面に向きを変えて進みます。
ここからしばらくは、中央に緑地帯を挟んだ通りとなります。
旧道をトレースするのは緑地帯の向こう側の道(吉祥寺方面の車線)ですが、距離ポストを抑える必要上、手前の道(小金井方面の車線)をあるきます。
10kmで1時間45分でしたので、正確な距離は分かっていないものの、40kmあるくとして、ここではゴール時刻を13時頃と見込みを立てました。
都道7号線グループである井の頭通りは、この関前五丁目を起点としています。
あるいているときには気付きませんでしたが、井の頭通りの延長線上にある道は、あるきろく20200321に出会った、あの自転車専用道でした。結構グレートな交差点です。
これよりしばらく、玉川上水と五日市街道は並行しています。
玉川上水は1653年にできた、と解説板には記載があります。
五日市街道については、「歴史の道 調査報告書集成 20 関東地方の歴史の道10」の記載によると、
・五日市街道はその昔、伊奈道と呼ばれていたこと
・その伊奈道は、1590年の徳川家康江戸入府以後、江戸城築城などの土木工事に伊奈の石工が重用されたが、その石工たちが江戸との行き来の際に利用した
ということです。
で、五日市街道が先なのか、玉川上水が先なのか、ということですが、どなたかご存じでしょうか?
最近は訪問していませんが、広くてよい公園です。
小金井橋にこの碑と解説板がありました。
解説板に描かれている絵だけでも、きれいな桜が思い浮かびます。
ぜひ、春に来てみたいものです。
玉川上水の両側に道路がある構図は変わりませんが、この喜平橋で、五日市街道は橋を渡り、玉川上水との位置関係を入れ替えます。
これもあるので、五日市街道が先か、玉川上水が先か、がとても気になるのです。
普段の生活では馴染みのない西武鉄道ですが、あるきろくではよくお世話になります。
ここでは西武多摩湖線との交差です。
国分寺市に突入しました。
武蔵野市に突入の後、頭上の市境看板はこれまでありませんでした(それとも気付かなかっただけ?)が、西東京市、再び武蔵野市、小金井市、小平市ときての国分寺市です。
この手前で、国分寺市から立川市に突入しました。
20kmポストは立川市若葉町にありました。
地図で見ると、赤丸の位置からポイントマークの位置まであるいたことになります。
イメージ的には、だいぶ西まで来たような気がしますが、まだ見込んでいる距離の半分しかあるいていないことになります。
ちなみに、この10kmも1時間45分とペースをしっかり守れています。
少しだけ近未来的な景色の砂川七番交差点です。
頭上を多摩都市モノレールが走っています。
なお、この辺りをあるいている頃、雨脚がすごくなり、写真撮影が疎かになります。
歩道も水浸し、車の跳ね上げる水にも注意しながらの道中となります。
しばらく別行動であった玉川上水と再会する天王橋です。
立川市一番町に位置します。
20kmポストのあった若葉町からこの辺りまで、西に向かって砂川十番~砂川一番という呼び名があります。モノレールの砂川七番のように。
でも、これらは現存の町名ではありません。
1963年に立川市に編入するまで、この辺りは北多摩郡の砂川町でした。
そのまたはるか昔ですが、江戸時代に、年貢徴収の単位として、西から順に「一番組」「二番組」というように集落ごとに名付けたのが由来のようです。
さて、この天王橋には、古くからの道標があるとのことでしたが、豪雨により探す意欲を削がれ、交差点の写真のみを撮影して、先を急ぐのでした。
このY字の交差点で、都道7号線は緩く左に曲がっていきます。
ここからしばらくは、あえて都道7号線をはずれ、真っ直ぐの道を進むことにします。
先ほどの交差点から10分あるきました。
正面および右手には米軍横田基地が広がります。
あるいてきた道は、基地にぶつかり不自然な急な角度で左に曲がります。
もともと、五日市街道は地図上の赤線の位置にありましたが、朝鮮戦争にともない横田基地が拡張されることになり、1956年6月の東京都の告示により、五日市街道の付け替えが行われることになったことによるものです。
横田基地を迂回することになった都道7号線に戻り、西に向かってあるきます。
踏切に出会いましたが、単線でしたので、八高線かな?と思いながら踏切名称を見ると、横田基地への引き込み線でした。
横田基地を迂回する都道7号線・五日市街道は、南北にはしる国道16号線を数百m並走し、ここ第五ゲート前交差点で、再び単独行動に移ります。
基地の拡張がなければ、先程の急カーブのところからここまで真っ直ぐ来ることができました。
なお、交差点を曲がってすぐに30.2kmのポストがありました。
この10kmは2時間ちょっと。
「旧」五日市街道を回ってきたこともあり、あるいてきた距離はこれよりも長く、また豪雨によるペースダウンもあり、20km地点までと比べて20分/10km程度時間がかかりました。
ということで、ゴール時刻を13時30分に修正して、先に進みます。
八王子~高崎(正式には、倉賀野)を結ぶ八高線です。
この辺りは電化されましたが、高麗川~高崎は今もなお非電化区間です。
青梅線、新奥多摩街道、奥多摩街道、そして五日市街道は、多摩川に沿うようにして狭い範囲に寄り添いながら川上へと向かって行きます。
ただし、五日市街道に関しては、その昔はきっと、この交差点では曲がることなく多摩川岸まで直線で進み、そこに渡しがあったのではないかと思うのですが…。
多摩川を渡る多摩橋です。
雨脚は弱まりましたが、川の流れは結構激しいです。
橋上には、32.2kmと32.3kmの距離ポストがありました。
橋を渡るとあきる野市に突入し、自治体としては目的地に到達したことになります。
多摩川を渡り、小高い丘に登ると、これまでにはなかったのどかな景色がありました。
急にゴールが近いように思え、ウキウキしながら今日はじめてGoogleMapで武蔵五日市駅までの距離を出してみましたが、まだ7~8kmあることが分かり、逆に萎えてしまいました。
秋川駅北口のロータリーを越えたのち、踏切で五日市線の北側から南側に移ります。
単線であることだけでなく、踏切で眺めた線路脇の雰囲気がもう「街中」ではないような気がしました。
観覧車がものすごく近くに見えました。
サマーランドには、いつも車で行きますし、南側からのアプローチなので、このような見え方は初めてです。
ここで37kmなので、あと3kmくらい?…と気持ちを引き締め、先に進みます。
ここでも、都道7号線同士が合流します。
一方は、睦橋通りという名称です。
都道7号線は、横田基地を迂回し国道16号線と並走する際、北に回る今回のルートと、一旦南へ向かい拝島駅前から幅広い一直線でここまで来る睦橋通り、の2本で多摩川を渡っています。
交差点の名称通り、左側が新しい橋、道路です。
右側の若干細い道が古くからある五日市街道です。
地図を見ると、古い道は川を渡らずしてひかれています。
新しい道は2本の橋で秋川を越えて、右手からの旧道と合流します。
実は、ここでアクシデントが発生しました。
左足小指は、以前から血マメができやすいのですが、ここで急にマメが破裂したような痛みに襲われ、普通に歩けなくなりました。
もう少しでゴールだから…と、我慢しながら左足を引きずるようにあるいています。
足の痛みでさらにペースダウンをしましたが、ついにゴール地点が見えてきました。
頭上の看板標識も、ぶつかる丁字路の左右がともに都道31号線であると記しています。
この地点の距離ポストは41.1kmです。
41.1kmポストから、それこそ100mか200mの距離ですが、写真を撮った時間差が8分あります。
ここまで、100m間隔で行く先を示してくれていた距離ポスト、都道5号線(青梅街道 → あるきろく20200321)の時と同じく、終点ポストを期待し、この交差点周辺をくまなく探しました。
が、見当たりませんでした。
致し方なく、五日市街道がここから始まりますよ、的な標識を撮影したのが13:30ということになります。
結果的には、途中で修正こそしましたが、見込んでいた通りの時刻の到着でした。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
スマートウォッチの計測では、時間は6時間45分、歩数はおよそ63,000歩、距離は46kmくらいでした。
距離ポストの数字とは若干誤差がありますが、横田基地に分断された旧道をあるくところで、2kmくらい遠回りしたので、こんなものでしょうか。
また、今回は距離ポストばかりに注目しましたが、単独自立版のヘキサ標識は1本もありませんでした。
さて次回は、東京都道8号線をあるきます。
九段下から谷原交差点を経て、田無へと向かう道です。
名称では、目白通りと富士街道になります。
ゴール地点は、都道4号線をあるいた、あるきろく20200315のなかで、都道4号線と都道5号線が分岐する田無1丁目交差点を示した地図にさりげなく出ています。
新宿側から見て、「田無1丁目」の一つ手前の交差点に該当します。
あるきろく20200606
2020年6月6日 あるきろく 都道をあるく(第5回)
新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、4月・5月はあるきろくも自粛いたしました。
3月21日以来、2か月半ぶりのあるきろく。
今日は、都道6号線をあるきます。
都道6号線は、ここ大森警察署前交差点で、国道15号線(第一京浜)と分岐してスタートします。
起点から、大鳥居交差点までは国道131号線との重用とのことで、しばらくの間、道路標示も「国道131号線」として先を進みます。
街路灯に貼られているステッカーの管理番号も、「6」ではなく「131」でした。
ここで初めてヘキサゴンで「6」号線の表示が現れました。
大鳥居交差点は、環八通りとの交差点で、左折すると羽田空港、右折すると蒲田を抜けたのち、これまでに歩いた都道2号(田園調布署前交差点)、都道3号(三本杉陸橋)、都道4号線(四面道交差点)などと交差します。
ここまで重用区間の相方であった国道131号線は、ここで左折し、環八通りとして羽田空港へ向かいます。
大鳥居交差点から単独の都道6号線となり、街路灯の管理番号も「6」となりました。
距離ポストを発見しました。
大鳥居交差点あたりにもあろうかと捜索しましたが、発見できず、ここで本日初めてお目にかかりました。
主要地方道である都道6号線、起点から0.3km・・・ということは、公的には起点は大鳥居交差点ということなのでしょうか?
目の前には大師橋。
多摩川を超えると神奈川県に突入です。
それにしても、ものすごい勾配です。
大師橋を「上っていきます」。
写真で見ても、急勾配であることがよく分かります。
大師橋の中ほど、坂を上り切ったところにモニュメントがありました。
旧大師橋を偲ぶものです。
さて、都道2号線も都道3号線も東京都から神奈川県へ渡り、そのまま県道2号線、県道3号線となりましたが、ともに多摩川を渡る橋の中央部には都県境を示す看板がありました。
でも、大師橋のこのモニュメントの辺りをいくら探しても、都県境を示すものが見つからないのです。
帰宅途中に、電車に乗りながら地図を見ると、この辺りの県境は大きく蛇行していて、大師橋では、すでに通り過ぎた「大師橋」の文字が書かれた辺りが都県境であったようです。
気付かぬうちに神奈川県に突入していたわけですが、多摩川を渡り切り、標識により、改めて神奈川県に突入したことを認識します。
国道409号線と交差します。
左折すると、東京湾アクアラインです。
いいものにお目にかかることができました。
この3月に、京浜急行電鉄では6つの駅名が改称されました。
改称よりも、この地上線の跡がいい味を出しています。
現在はこの地下を電車は走っていますが、線路の残るこの風景をいつまでも残してほしいものです。
国道132号線と交差する、塩浜交差点です。
今回のあるき始めは、国道131号線との重用区間でしたが、その国道は大鳥居交差点から羽田空港へと向かって分かれていきました。
ここで交差する国道132号線は川崎港を目指す道路です。
Wikipediaによると「港国道」という言葉があり、説明として「日本の重要港湾・飛行場と主要国道を結ぶ一般国道について、国道愛好家が名付けた俗称」とあります。
国道131号線、132号線ともに、この「港国道」と定義される路線とのことです。
「産業道路」という名称だけあって、広い通りを大型ダンプカーがひっきりなしに走っていきます。
したがって、ほとんどの交差点に、立派な歩道橋が設置されています。
ゴミ…
さらにゴミ…
またもやゴミ…
ゴミだらけ…
塩浜交差点辺りから、この先鋼管通り交差点辺りまで、このような状況が続きます。
車道と歩道の間に樹木が生い茂り、車通りが多い中、環境を保つための整備はされているのですが、それを破壊するかのように絶え間なくゴミが投棄されています。
あと一つ言わせていただくならば、くわえタバコの自転車がものすごく多い、です。
あるいていて、あまり楽しくはなかったですね、残念ですが…。
今日は、6号線をあるかないと、7号線に辿り着けないからあるいている、という感じになってしまいました。
左手にはバスロータリーがあり、その先の線路を越えると、JFEスチール(←日本鋼管)の工場などがあります。今もなお、昔の名前が地名として残っています。
この交差点を右折して国道1号線に至る道路は、「市電通り」とこれまた昔の名前で出ています、状態です。
【川崎市電】
開業:1944年
廃止:1969年
京急川崎駅辺りから国鉄川崎駅前を通り、日進町交差点からは市電通りでこの鋼管通り交差点に。そしてここまで歩いてきた県道6号線を川崎臨港警察署前交差点まで戻り、塩浜へと至る総延長6.7kmの路線。
廃止されて51年経ちながら、そのままに名称が残っているのはすごいですね。
立川方面から川崎に向かって南武線に乗ると、川崎の一つ手前の尻手から、通称「南武支線」がこの浜川崎へと分かれていきます。
いま初めて、浜川崎駅にこのようにお目にかかったのですが、目の前に聳える高架線(貨物線)の裏側には、JR鶴見線の浜川崎駅が隠れています。
工場の間を抜ける貨物線やら、通勤客を運ぶ旅客線やら、いろんな線路が絡み合う、非常にカオスな地帯です。
首都高の入口もある交差点です。
標識では、左折するとJR鶴見線の武蔵白石駅へと向かうとのことですが、地図を見ると「米海軍貯油所」という記載に目が惹かれます。
左折すると「末広町」とありますが、実はそこにはあのDASH海岸があります。
これも、あるいていた時にはつゆ知らず、帰宅後に地図を見て知ったことではありますが。
それにしても、右折しての「潮風大通り」。光るネーミングセンスを感じずにはいられない今日この頃です…。
生麦ジャンクションです。
ジャンクションの下、生麦交差点で県道6号線は右折します。
ジャンクションの下の大きな交差点です。
この交差点には横断歩道がなく、自転車も歩道橋を渡らなくてはなりません。
2つの歩道橋をL字に渡り、西向きから北向きに方角を変えてあるきます。
正面の交差点は丁字路ですが、右も左も国道15号線です。
つまり、あるいてきた県道6号線はこの交差点までです。
小さく写る県道6号線標識は、片矢印型です。
つまり、ここからですよ、という印です。
ということで、本日のあるきろくはここまで。
時間はおよそ2時間40分、歩数はおよそ19,700歩、距離は17kmでした。
都道6号線、県道6号線を通じて、自立のヘキサ標識は今回もありませんでした。
(矢印を兼ねた標識は、神奈川県に入ってから見かけましたが)
さて次回は、都道7号線(杉並あきる野線)をあるきます。
支線を含めると、その総延長は59.2kmであり、都道の中で最長の路線です。
基本は「五日市街道」をトレースするようあるこうと思いますが、1日であるき終えることは可能でしょうか…。